導く指先
都を『落ちる』という言葉を当てはめた知盛の真意を察することはできない希だったが、いざ目の当たりにすればそれを肌で知ることとなる。圧勝に酔った木曽の軍勢の勢いは平家の予想を遥かに上回っており、準備が整いきらない夏の夜に、その瞬間はやってきた。
「希殿、希殿」
「……?」
肩を揺すり、名を呼ばう声に重い瞼を持ち上げれば、緊迫感に表情を強張らせた“母”が希を覗き込んでいた。
「どうぞ、お早くお支度を」
言いながら希の上体を引き起こし、てきぱきと水干を着付けさせていく。
「胡蝶殿?」
「木曽勢が京に迫っていると。皆様、順次出立しておいでです」
会話の成立を求めようともせずに与えられた説明に目を見開き、希はそこで一気に覚醒した。びくりと震えた肩には、しかし微塵の感慨もみせず、脇に両手を差しこんでは希を褥の上に立ちあがらせる。
「足を」
急かすように言われて足元に視線を落とせば、後は足を通すだけの状態に整えられた袴。慌てて足を入れて腰まで引き上げれば、手慣れた調子で着衣を仕上げられる。
見れば、もまた水干を身につけ、腰には小太刀を佩いている。前線に出るほどではなく、けれど他の女房達のようにただ車に乗って、あるいは徒歩での移動のみではないということだろう。
「わたしはこのまま、知盛殿と共にしんがりに残ります。希殿は、先に車にて進まれますよう」
しんがりということは、折りが悪ければ木曽の者と刃を交えるかもしれないということだ。鎧を身につけていないということは、そうなる前に自分達に合流するという意思の表れなのだろうが、不安は拭い切れずに希は思わずしゃがみこんだままのの肩に手を置いてその双眸を覗き込む。
「胡蝶殿も、すぐに参られますよね?」
「ええ、もちろん」
じっと見詰めた先にある夜闇色の双眸は、不敵さと自信と慈愛を篭めて、実に美しく笑みを湛える。
「少々用向きがございますので残りますが、わたしの本分はあなたを含め、先に進まれる方々の護衛でもあります。すぐに、追いつきましょう」
守られねばならないと、その言葉に改めて思い知る己の立場が不甲斐なくもあったが、偽りなど一片も感じられない、そして疑う余地の微塵もない声に安心して、希はこくりと首を縦に振る。
「さあ、表で車が待っているはずです。急ぎ、参りましょう」
「はい」
言って膝を伸ばし、希の小さな手を包み込むの指は、他の女房となんら遜色のない細くたおやかなそれ。けれど、その指先がしかと握る刃にて、自分達はこの先の道行きを守られる。
守られるだけではなくて、守りたいのに。尽きることのない願いに歯噛みして思わず力を篭めた指先を、優しく力強く、包み込む細い指が、希に行く道を指し示す。
この一件はひとつの契機であると、そう嘯いていた知盛には他意も含みも山ほどあったのだろうが、他意も含みもなく、これを契機にと知盛は家人の一部を京に残していた。それは、頼る先のある女房であったり、諸々の事情があって源氏の名を仰ぎながら知盛の麾下に降っていた郎党であったりと様々。
しかし、それでもなお列をなして西へと進む人数は決して少なくはなく、それが一門すべてともなれば、物々しさも半端ない。年齢のことも立場のこともあって車に揺られている希の目には映らないが、ざわざわと響くとりとめのない喧噪は、夜のしじまを微弱ながらも確かに侵食するだけのものであった。
刻限が刻限ゆえ、このまま寝てしまっても構わないと同乗する女房には何度か勧められたのだが、神経が昂ってしまっていて眠気はちっとも訪れない。気遣いに感謝を示しながらも断り続け、そして待ち望むのは背後から響く蹄の音。
ゆとりのない道行きにしては随分ゆったりしたものだと思った牛車は、後から追いつくの同乗を前提にされていると聞いた。きっと彼女は約束を守ってくれる。そう確信する一方で、不安が拭い去れないのも事実。行儀悪くも膝を抱えてくるりと体を丸めながら、希はざわめきの向こうに耳を凝らし続ける。
Fin.
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