焦がれて懼れて
「還内府殿が、な。そう、申されるのだ」
かえりないふ。耳に届いた音を口の中でそっとなぞりなおして、希は見知らぬ“伯父”の存在を思う。
「この都に留まる意味は、もはやない……。四方に開けた京よりは、海と山とに守られた福原の方が、よほど理にかなった砦であると」
「でも、それは、」
「戦わずして、負けを認めるようなもの……だな」
言いさしたはいいもののあまりにも不穏当と感じて飲み込んだ言葉を、知盛はあっさりと当ててみせ、不敵に笑う。
「だが、一理ある」
不安に駆られて視点が落ち着かなくなってしまった希をひたと見据えながら、続く声はあまりにも淡々と。
「この大敗で、失ったモノはあまりに多い。兵のみならず、馬、武具、士気……これらすべてを短期で補い、勝利に勢いづく木曽を迎え撃つのは、不可能だ」
「では、都を落ちるというのは、もはや決まったことなのですか?」
「総領が決定は、一門が総意」
ちっとも敬意など感じられない口調でわざとらしいほど慇懃に嘯き、知盛はそのまま「だが」と逆接の言葉を続ける。
どこまでも静謐な声で、投げかけられたのは問いだった。
「お前は、どうする?」
予想だにしない言葉を差し向けられ、声さえ上げられずにぱちぱちと瞬く希に、知盛は淡々と続ける。
「一門と命運を共にするか、これを限りと袂を分かつか……この都落ちは、一門にかかわるありとあらゆるものにとっての、契機となる」
「……どういう、意味ですか?」
「平家のしがらみから逃げ出すには、好機だと言っている」
もっとも、木曽の連中が、お前をどうみなすかはわからんがな。なんでもないことのように肩をすくめ、うっそりと笑みを刻む口元は獰猛。
「これを機に、源氏におもねるつもりの方々は、既に動きはじめている」
「………ボクが、その人達と同じように、源氏に寝返るとでもお思いですか?」
「寝返るのではなく、帰るのだろう? お前の場合は」
「ボクは、そんな風には思いません!」
やわりと混ぜ返された言葉をぴしゃりと跳ねのけ、希は相手が病人であることなど忘れて身を乗り出す。
礼儀作法も遠慮も気遣いも、何もかもが頭の中から吹き飛んでいた。差し向けられたその選択肢の奥に潜む思惑が何であれ、希にとってそれは屈辱でしかない。“父”との関係を、そんな風に、軽く翻せる絆として紡いできたつもりはなかったのだ。
「ボクは、父上の……“平知盛”の、息子です! 父上が西へと参られるなら、ボクも、一緒に行きます」
「ああ、そうだな。お前は確かに、俺の“息子”だ……。なればこそ、慈悲を垂れてやろうと言っている」
息せきながら言い切った言葉をさらりと受け流し、知盛は調子を崩さずに小さく頷く。
「室殿や幼子らを残そうという向きは、さほど珍しくもない。そしてお前は、ただ都に残る方々よりも……確かな後ろ盾が、ある」
なるほど、理屈は確かに筋が通っている。希にとて、その理論はよくわかる。だが、同時に希にはこうして言い諭すのが知盛だからこそ、言い返せる理屈がある。
「ボクは、その名の許に『生きた』ことがありません」
珍しくも、小さく、けれどはっきりと目を見開いた知盛に、希は一気に畳みかける。
「あの時、父上が言っていた本当の意味とは違うかもしれません。けれど、ボクにとって、絶つことで生きることがあるとすれば、今がそうです」
確かに、敗北を背負って都を落ちる平家と共にあるよりは、勝利を背負って都にやってくる源氏の許にある方が生存率は高いだろう。しかし、希はそんなものは求めていないのだ。
「源氏の名を、ボクは求めてなんかいません。ボクは、父上の息子として、生きています」
ぴしゃりと、いっそ叩きつけるようにして言い放てば、呼吸を二つほど挟んでから、知盛はやわらかく溜め息を吐き出す。
「……随分と、生意気な口をきく」
それは、遠回しな了承の合図だった。それでもなおと“父”として命じる言葉を重ねられれば反駁の仕様がなかった希は、胸の片隅に巣食っていた怯えを解き放ち、ほっと息をつきながら言い返す。
「子は、親の背中を見て育つものだと、胡蝶殿がおっしゃっていました」
「男の子供は“母親”に似るものとも、言っていたな」
やわらかく、優しく。この情景がある以上、自分はきっとどんなに苦しい道のりでも、“父”と“母”がいるという理由だけで平家一門と共に在ることを望むだろうと、希は静かに確信する。
「名を負うということは、しかし、源氏でも平家でも変わりはせんと……それだけは、覚えておけよ?」
そして、ふと笑みに綻んでいた表情をすべて削ぎ落とし、凄みさえ感じるひどく静かな声で与えられた箴言に、希もまた背筋を正し、表情を引き締めてからしかりと頷く。
「はい――父上」
誇りを篭めて、祈りを篭めて。声の重みを、感じ取ってくれたのだろう。ひょいと器用に持ち上げられた片眉で小さく揶揄の意を示し、けれど知盛はどこまでも優しく喉を鳴らして耳慣れた笑声をこぼすにとどめておいてくれた。
Fin.
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