思いの切っ先
ぴたりと閉じられた枢戸の向こうに呼びかければ、すぐさま「入れ」との返答。どうやら、引き篭もってはいるもののそろそろ回復に向かっているらしい。声の調子から知盛の体調を推し量れるほどには、希は“息子”としての己を存分に確立していた。
断りの言葉を小さく述べてから押し開いた戸の向こうでは、もはや目に馴染んだ光景が展開されている。手燭に灯りをともして横臥したまま何やら書簡に目を通している“父”の姿は、彼が何を憂うこともなく純粋に体を休めることさえできない時流を示しているのだと。気づいたのは、つい最近のことだった。
「しばし待て……これで、終える」
うっかり唇からこぼれそうになった溜め息を呑みこんだ希には一瞥すら与えず、忙しなく文字を追いかける視線の動きに声が載る。ちらと垣間見ることはあっても、倶利伽羅峠から戻ってよりはこうしてまじまじとその横顔を見るのは初めてだった。
灯りをともしているとはいえ、塗り籠めの中は薄暗い。その光の具合だと信じたい“父”の顔色の悪さは、けれど明らかなやつれの見える頬のあたりによって、隠しきれない疲弊ゆえなのだろうと確信させられる。
終えるとの言葉通り、視線が手にしていた紙の左下に行きついたところで、知盛は大きく息を吐き出しながら瞼を下ろした。手探りだけで書簡を折りたたみ、床に無造作に投げることで空いた手が代わる代わる肩へと当てられる。
「お体の調子は、いかがですか?」
「まあ、マシか」
凝り固まった筋肉をほぐしているのだろう。聞こえるはずのないぴきぴきという音が耳朶を打つようで、眉間に寄ったしわを見つめながら当たり障りのない挨拶から始めれば、疲れを隠そうともしない声がぼんやりと宙に放られる。
「動けぬほどではない……。無理にでも、動かねばならぬ状況だがな」
言ってようやく瞼を持ち上げれば、疲れ果てた声音とは裏腹に、鋭くすべてを射抜くような深紫の視線があらわになる。
「こたびの顛末は、聞いているな?」
「はい」
前座は抜きにして本題に入るのだろう。いかにも物騒な声音で突きつけられた最初の一言に、希は知らず、膝の上に揃えた両手にぐっと力を篭める。
床に近い位置から視線を持ち上げていた姿勢を改め、上掛け代わりの衣を肩に羽織りながら知盛はのっそりと体を起こした。とたんに視線の位置が上下逆転し、ただでさえ緊張に強張っていた背筋がぴりりと震えるのを自覚する。
存在感のそこかしこに儚さと鋭さを同居させる“父”の中で何が一番印象的かと問われれば、希は迷いなくその双眸だと答える。立ち居振る舞い、言動、纏う気配。そのすべてが合わさってはじめて知盛という人物が織り上げられるという理屈はわかっていても、そこにこの瞳が伴われなければ完成には程遠いと感じている。
決して多くを語りはしない深奥に秘められているのだろう氷のような焔を垣間見せる、不可思議な熱と冷たさを湛えた紫水晶の瞳。その瞳に絶対の殺意を篭めて見据えられれば、それは彼を鬼神と称して恐れ慄きたくなるのもむべなるかなと、見たこともない戦場での有様さえまざまざと思い描ける、絶対的な力の具現。
「都を落ちる」
「え?」
「この京を捨て、西に逃れることと、決まった」
その双眸にただ硬質な光を湛えたまま、無機質な声で、知盛は淡々と言葉を積み重ねる。
Fin.
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