届かない
つまらない嘘をつかない“父”の確信は遠からず現実となり、少なくとも希の周りには穏やかな日常が戻ってきたかのように見えた。の快復と前後するようにして倒れた知盛はほどなく政務に復帰し、見舞いに訪れるたびに希の許にも顔をみせてくれていた重衡は再び軍場へと出向く。
それまでにも、邸の外ではどたばたと落ち着きのない何がしかが起こっていたらしいが、希には伺い知る術もない。ただ、“父”の忙しさと疲れとが信じがたい速度で募っていき、それをなんとか緩和させようと立ち回る“母”の傍らで昏々と眠り続ける姿に、いつかの念押しをぼんやりと思い出すぐらいなものだ。
決して苛立ちを殺せないほどの緩やかな速度で、けれど確かに時間を重ねていく。
剣術の稽古は、いつしか真剣を用いての指南を施してもらえるようになった。馬の扱いを教わり、栗毛の穏やかな気性のものを一頭与えられた。舞に和歌、漢詩に楽も一通り。兵法もつかえることなく読めるようになったし、筆運びも随分なめらかになったと褒められた。
しかと胸に刻み、忘れるなと言われたその過去を葬った覚えはない。けれど、希が己の身に流れる笹竜胆の血を意識することも、もはやほとんどない。
憧れるのは“父”の背中。優雅でありながら猛々しく、怜悧でありながらどこか儚げに。武人としても公達としても賞讃の声の絶えないその人を父と呼べる己が誇らしく、その人に息子として扱われる己が誇らしい。だから、その誇りをこそ穢さないように在るのだと。それが、現時点で希の至った“生きる”という覚悟だった。
大きな戦のない、細々とした討伐を繰り返す日々の中で、時流という喧噪をどこか遠いことのように聞き流しながら過ごす。
呪詛による熱病にて没したはずの平清盛公の名が、なぜか未だに絶えない。“父”の異母兄だという平重盛公が蘇ったという噂を聞いた。人外の力を行使するとして、南都の一件からこちら兵達から一種の信仰めいた絶大なる信頼を博す“母”を、その不調を機に貴船に放り込み、“父”は邸の霊的守護をより強固なものへと作り変えた。
拾われてよりこちら、希は“平知盛の息子”として扱われる一方、どこまでも一種の捕虜であり人質であり続けた。邸から外に踏み出すとすれば、それは市だの寺社だの。いずこにあっても、他の一門の面々と顔を合わせることはない。
その扱いが、排斥を目的としているのか庇護を目的しているのかを迷うようなことがあればまた別だったのだろうが、あいにく、疑念を抱くには希はあまりにも“父”のことを慕い過ぎていた。
何を知らされたとしても、何を隠されたとしても、それは自身に対する負の思惑ゆえではありえないと。あるいは盲信と称されても仕方のないほどの絶対的な信頼で、希はただ許された場所で許された時間を送ることを、慈しんでいた。
それでも、喧噪を聞き流せていたのはおよそ二年強というごくごく短い時間だった。無視しえぬ大きさとなった喧噪の核にあった名は、源義仲。希の知る限りでは群を抜く最大規模の軍勢を派遣した新緑の倶利伽羅峠が紅色の阿鼻叫喚に染まったとの悲報を聞いて、腹の底で憎悪が煮え滾った己に少し驚き、この情動を“父”が知ったら何と言うのだろうと、少し思い悩んだ。
空前の規模の軍勢が空前の規模で壊滅した。けれど、不幸中の幸いにして、知盛とその配下にはさほどの犠牲が出ていなかった。
武家としてはじまった平家は、宮中への参内を許されたのを機に貴族としての側面に染まっていった。その中で、公達として誰にも文句を言わせない完璧な振る舞いをみせる一方、一門の中では異端とさえみなされる武芸への一種異様なほどの執着を隠しもしなかった武家としての側面の粋を集めたような在り方が、ことここに至って花開いたのだろう。偶然の産物か、すべてを見透かした上での知略の産物か。希には判断することができず、そんな過程よりも、知盛が無事だったという結果こそが大切だった。
「父上、希です」
もっとも、被害があまりに大きすぎた戦からの数少ないほぼ無傷の帰還者ということもあり、知盛は戦後処理に駆り出されてしばらくばたばたと忙しく動き回っていた。大規模な派兵とその指揮は、ただでさえ神経をすり減らす。そこに本来以上の過負荷が与えられた結果、なんとか戦後の混乱を形式の中に放り込むと同時に知盛は塗り籠めに引き篭もらざるをえなくなってしまった。
いつになったらその無事を面と向かって確認し、安心できるだろうともやもやした思いを抱えていた希が当人から呼び出しを受けたのは、そんな塗り籠めでの引き篭もり生活が三日目に入った夕刻のことだった。
Fin.
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