業火を負うぬくもり
燃え落ちる邸の只中にて、その子供は泣きもせず、かといって状況さえわからぬほどの無様な白痴さからは程遠い表情を浮かべて、そこにいた。
「お前、このままでは死ぬぞ」
抜き身の刃には、誰のものとも知れぬ血が纏わりついている。鎧に、腕に、指に、髪に、頬に。そこかしこを返り血にて赤く染めて立つ姿は、味方の兵をして鬼神と言わしめるもの。小姓が怯える姿も多く見ていたことから、きっと恐ろしきものなのだろうと察している。だというのに、子供は怯みもしない。
「焼かれて死ぬか、斬られて死ぬか」
子供が纏うのは白き衣。対して男は紅を纏う。当人からは聞いてもおらぬが、間違いなく子供は白の中の白。そして男は、紛れもなく紅の中の紅だ。相容れる道など、あろうはずもない。
柄の握り方ひとつ知らぬ子供に、抵抗の術はない。ただ力なく地に伏し、血潮を流し切ればそれで終わる。
「……それとも、生きてみるか?」
きっとそれは、子供が幼いながらに察し、覚悟していただろう行く末だった。だからこそ、切っ先を向け、炎に照らされ、紅の只中にてより映える赤を纏う男の言葉につぶらな瞳がはっと見開かれる。
「生きる覚悟があるのなら、この俺が、お前を拾ってやろう」
その声は子供に死を予告したものとまるで同じで、抑揚も薄く淡々と響く。熱気の中心で、焔を髣髴とさせる出で立ちで、彼はまるで万年雪のような冷厳とした気配を湛えている。
「どうする? いずれを選ぶも……お前の、自由だ」
にぃっと。口の端を吊り上げて、男はわらった。嗤ったようであり、微笑ったようだった。無論、それを判じられたのは向き合っている子供だったのだが、あいにく、子供には彼の浮かべた笑みの真髄を解するほどの時間と経験の蓄積が圧倒的に不足していた。ただ、神の域をまだ脱しておらぬがゆえの感性が伝える声を拾うだけの度量があったというだけの話。
「覚悟があれば、生きられますか?」
「さて、な」
熱気と煙に曝されて掠れた声には、飄々とした低き美声が与えられる。
「“生きる”ことが能うか否かは、お前次第。俺にできるのは、お前の命を繋ぐことのみ」
「命を繋ぐことは、生きるということではないのですか?」
「俺はそれを良しとせぬ……ただ、それだけの話」
絶つことで生きるモノもあるのだと、今のお前には、まだ早い話だろうがな。そう静かに嘯き、わずかに伏した視線は確かに何かを悼み、讃えて凪いでいる。
「お前の見ているこの俺は、俺の真髄。血にまみれ、血を啜り、恨みを抱えてそれを踏み越えてこそ、往く」
同じようにして啜られるはずだった血は、子供の内に。乳母にさえ見捨てられ、こうして炎の只中に残されてなお静穏さを保つ年齢不相応な様相に興味をそそられなければ、きっとその不運を憐れみながらも微塵の躊躇いもなく屍を踏み越えていただろう自分を、男は知っている。
「その俺の手を取ってでも“生きる”ことを探る覚悟があるなら、」
取れ。言って差し出された右手は血に汚れ、皮膚が堅く盛り上がり、けれど子供を傷つける刃を握ってはいなかった。両手に携えられていた双太刀はいつの間にか腰の鞘に納められ、それでもなお存分な殺傷力を誇るだろう左手の籠手は、殺意の欠片もなく体側に下ろされて沈黙している。
「では、あなたが教えてください。“生きる”ということの意味を」
か細く、かほどの熱に曝されているというのに血の気を失った白い指が、問うように男の堅い指先を握る。
「いとけなき幼子かと思いきや、さすがは武門の子か」
捕らわれていたはずの指が、あっという間に細い腕を掴んで軽々と子供の体を抱き上げる。力強い動作に息を乱すこともなく、むしろ喉の奥で揺らされるのは愉悦に満たされた笑声。
衣桁に残されていた、難を逃れていた貴重な衣をさらりと攫い、低く口の中で言葉を転がしてから男は子供ごと包み込むように頭からそれを被る。
「俺は、教えるのは得意ではないが、お前に俺の生き様を見せることは厭うまいよ。ゆえ、勝手に学べばいい」
そう嘯きながらゆるりと振り返り、男はまるで炎を従えているかのように悠々と足を運びはじめた。ひらひらと踊る衣の裾が心許なく、思わず指を伸ばして掴んだ子供のことをちらと見て、さらにわらって籠手で降りかかる火の粉を薙ぎ払う。
「そして、これだけは覚えておけ」
炎が爆ぜる音に混じり、けれどその声は凛と透き通って子供の耳に届く。それまでとは明らかに色味を異にする声音に視線を持ち上げれば、声と同じくどこまでも透き通った深紫の双眸が引き落とされる。
「お前は今日より、白の上に紅を纏うこととなる」
今はわからずとも、やがて知るその日のために、決して忘れるな。
その一言のためだけに足を止めて、いっそ厳かに宣した男は、思わぬ迫力に呑まれて息を詰めた子供の緊張に満ちた表情を一瞥し、再び力強く足を踏み出す。
「あなたは、誰なのです?」
それは、あまりにも間の抜けた問いかけでさえあった。今さらそれを問うかと、今この瞬間にそれを問うのかと、思わぬおかしさに耐え切れず笑声をこぼしてから、男は朗々と謳いあげる。
「平知盛――お前の父の仇にして、今日よりお前の父となる男、だ」
業火の只中にて最後に息を詰めたのが、敵味方という立場を越えてその声の持つ力強さと見上げた横顔の凄艶さに呑まれたからだというのは、子供自身が後から思い返して知ったことだった。
Fin.
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