朔夜のうさぎは夢を見る

共同戦線

 希と知盛のかくな遣り取りなど、そしてもちろんが知るわけもない。西国に向かう前よりもどこか深みと凄みを増した空気を纏い、帰還を知らせに希の許に出向いてくれたその笑みは、早く見たいと願い続けていたそれよりもあたたかいような気がした。
「お戻りなさいませ!」
「ただいま戻りました」
 漢詩をたどたどしく朗読をしていた冊子なぞ、手にし続けている理由もない。区切りがつくのを見計らって簀子縁から顔をのぞかせてくれたに、希は満面の笑みを浮かべて小走りに駆けよった。
「随分と上達したようですね」
「ちゃんと、毎日欠かさずに手習いをしていました」
「剣の鍛錬はいかがです?」
「頑張りました」
 膝を突き合わせるようにして腰を下ろし、懐かしい褒め言葉にくしゃりと相好を崩す。雄弁でないことに加えて滅多なことでは褒め言葉などかけてくれない“父”とは対照的に、は些細な部分に対してでも希の努力を認め、称える言葉を与えてくれる。


 既に旅装は解いたのだろう。背に流されている夜闇色の髪がしっとりと湿り気を帯びている様子からして、旅の埃も落としているらしい。すっかり目に馴染んだ女房装束からは、仄かに菊花の香りが漂ってくる。
「約束は、違えませんでしたでしょう?」
 ふわりと唇を弓なりに吊り上げ、いたずらっぽく紡がれたのはが邸を空けるということを聞き知って曝してしまった、あの日の不安への再確認。幼子をあやす調子で宥められたと感じていたからこそ、まさかこうして改めて言葉にされるとは思ってもみなかった。
 きょとんと目を見開き、そして自分が思っていた以上に自身の存在がこの“母”の中で重い意味を伴って受け止められていることを知って表情がとろけることを自覚する。
「はい」
「では、もう留守居をなさっている間のことを、さほど心配せずとも大丈夫ですね?」
「はい。ちゃんと、父上と胡蝶殿が帰ってくるのを、待っていられます」
「それを聞いて、大変安心いたしました」
 神妙な声と表情とを取り繕っていると雄弁に語っていた楽しげな瞳が、ふと蔭りを帯びる。


 折りにふれて対称性を見せつける知盛とだが、時折りひどくよく似た一面をも垣間見せる。滲んだ蔭は、不安だとか悲哀だとか、そういったものではない。あえて言うなら、それは剣呑さ。艶やかに重ねられた装束では隠しきれない鋭い気配を湛えて、は何かをひたと見据えている。
「年内か、年をまたいでかはわかりかねますが、遠からず再びお邸を空けることとなりましょう」
「……戦、ですか?」
「南都が騒がしいとの報は、厳島にも届くほどでしたので」
 声音がことさら変質したわけではないのに、硬質さと冷厳さを帯びたと肌で感じる声が淡々と時流を語る。
「順当にいけば、鎮圧は知盛殿に任じられましょう。そうなれば、わたしもまた南都へと赴きます」
「今度は、ボクはひとりで留守居をするのですね」
 東国に赴いているという重衡は、まだ京に戻らない。もしかしたら先日同様、どこかしらの邸に預けられるのかもしれないが、だとすればがこうしてわざわざ現段階では推測にすぎない状況説明をするのも不自然なことだ。知らず緊張に強張る背筋をどこか遠いことのように感じながら、希はけれどまっすぐに夜闇色の双眸を見返した。
「大丈夫です。任せてください。父上と胡蝶殿がお戻りになるのを、ちゃんと待っています」
 自然な、とも、自信に満ち溢れた、とも言えない。けれど精いっぱいの笑顔を浮かべて言い切った希にわずかに目を見開いてから、はくすぐったそうに笑声をこぼして「頼もしいことですね」と頷く。
「いつか、あなたと共に軍場に立つ日が楽しみです」
 重ねられたのは無論、最上級の褒め言葉。それを正しく知ってはいたが、この場面でこのような言葉がさらりと口を衝くあたり、やはり“父”と“母”はよく似ているのだなと。妙な感慨に呑まれた希は、一拍を置いてからへにゃりと笑うのみだった。

Fin.

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