密約の前に
子供特有の高い体温を温石代わりに抱き込んでしっかり睡眠をとったことが功を奏したのか、優しくて不機嫌な一晩の後、すっかり回復した知盛がの帰還を知らせる文を持ってきたのは、それから数日経ってのことだった。もっとも、ひょいと渡されたその紙に希は見覚えがある。先日、塗り籠めの中で“父”が読んでいたうちの一枚だ。
知っていたのならもっと早く教えてくれればいいのにと、思わず詰れば逆に憮然とした面持ちで「そこに座れ」と命じられる。
「アレが戻る前に、念を押しておくが」
「はい」
言葉をゆるりと紡ぎ、挙措が基本的に流れるようなものであるからうっかりゆらゆらと掴みどころのない、あるいは頼りなく揺らぐ印象を受けがちであるが、知盛は実に姿勢が良い。力を抜ける場面のほぼすべてにおいて姿勢を崩しているから見落としがちだが、さすがは一門でも随一と謡われる武の者。ぴんと背筋を張っている姿は、さながら若竹のようである。
目の前に手本があれば、良くも悪くも子供は影響される生き物だ。それは、年齢不相応だの、子供らしからぬだのという形容を受ける希とて同じこと。珍しくも脇息を手繰りよせず、背筋を伸ばして座す様子につられてぴしりと姿勢を正せば、いっそ厳かなほどの真面目な声が降ってくる。
「懐くのは一向に構わんが……もう少し、隠すことを意識しろ」
あまりにも真面目な表情で、剣術の稽古の時のような張りつめた空気で対峙されたものだから只事ではあるまいと緊張にぴりぴり神経を張り詰めさせたというのに、与えられたのはあまりにも不可思議な忠告だった。予想外にも程がある話題の方向性にうっかり「はい?」と返し、ぽかんと口を開けてしまった希には構わず、知盛は続ける。
「アレを母と、そう思うのは、お前の勝手だ。俺は止めんし、別段不自然なこととも思わん」
一番長く身近にいる女房はアレであり、あの時の軍場にも居合わせたからな。お前が懐くのは、むしろ当然だろう。
淡々と事実を織り上げる声はひどく凪いでいるが、そのままの流れで唐突に不機嫌さが滲み出る。
「だが、俺は“お前の母”としてのアレではなく、アレそのものを手に入れたい」
いくら幼い身空でも、突きつけられた言葉に含まれる隠す気の微塵もない艶の気配は感じ取れたのだろう。ますます唖然と目を見開きながらもわずかに頬を染め、ぱちぱちと瞬きを繰り返すあどけない双眸に知盛は言葉を重ねていく。
「これまでと、何を変えろというわけではない。だが、お前はこうしてアレのおらぬ日を重ねることで、思いを深めていよう?」
指摘には思い当たる節があった。早く、早く。果敢な将であり風変わりな女房であり容赦ない“母”であるあの存在が知盛と共にないことに違和を覚え、自分の手の届かないところにいられることに覚えた寂しさに至ったのは、それこそ先日の話だ。
もちろん、引き取られてよりすぐに懇々と諭されたこともあり、かなりの特別扱いにあるとはいえ家人達もあくまで“女房”として位置付けていることもあり、そもそもその立ち位置が知盛付きの女房であることは厳然たる事実でもあり。希としても、必要以上にの邪魔になるような懐き方はするまいと自制する心積もりはあったのだが、どうやら知盛には念押しの必要があると判じられるほどあからさまに態度なりに出ていたらしい。
「先日のような、あからさまにアレを恋う様は、少しばかり控えろ」
「………そんなに、あからさまでしたか?」
「妬ましいほどに、素直だったが?」
自身の心の持ちようへの自覚はあったが、それ以外に関しては関知の範囲外。辿れる限りの記憶を思い返しながら首を捻れば、それこそあからさまに拗ねた様子で畳みかけられる。
“父”はどこまでも遠く、圧倒的なまでに希に完璧という言葉を連想させる存在だったが、時にこうして信じられないほど世俗にまみれた側面を曝す。隠そうと思えばきっといくらでも隠せるのだと。そう確信するほどには知盛という存在の凄まじさを悟っているからこそ、希は垣間見るそれの真意を時々考える。見せることで希が必要以上に委縮しないようにと気遣ってくれているのか、見せても構わないと思えるほどに懐深く招き入れてもらっているのか。
もっとも、いずれにせよ垣間見えるのは事実であり、そういった瞬間はいずれも“母”絡みだということにも気がついた。だから、希は手にすることのできた事実から確実に導き出せる現実をこそ重んじる。つまり、“父”にとって“母”の存在はそれだけ重要なのであると。
「では、どうすればいいですか?」
変える必要はないと言い、あからさまな様相は控えろと言う。もちろん、希自身が“父”と“母”の絆を尊いと思っていればこそ、その二人の傍に置いてもらえる自分の立場というものをわきまえる用意はある。
考えもせずにただ答えを求めることには嫌な顔をする知盛だったが、考えてもわからないこと、知らないことを問いかけることには何においてもひどく寛容だ。自覚がないことを揶揄されたばかりであればと問いを差し返せば、どこまでも生真面目に言い放たれるのは境界線の存在。
「“母”であるアレは、お前の領分……だが、それ以外のすべては、俺の領分。それを、しかと胸に刻んでおけ」
「……胡蝶殿を、母上みたいだとそう思うのは、構わないのですか?」
「やめられもしないことを、やめろと言うのは無駄だろう?」
どうせ勘付かれてはいただろうが、目の前ではきと言葉にしてへ向ける感情を告げても、知盛は実にあっさりと言い返してくる。
「不自然だとは思わんし、それはそれで構わん。お前の養育自体は、邸の者が総出でかかっているようなものだしな」
そういう役どころなのだろうと、さらりと嘯いて知盛は実に物騒に笑う。
「アレはまず、俺のモノ。その上で、お前の“母”としての側面をも持ちうると……そのように、心得ておけ」
「心得ていれば、大丈夫ですか?」
「俺は別に、アレに“母”としての側面なぞ、求めてはおらんからな。そこは、お前に譲ろうよ」
わかったようでよくわからない念の押され方ではあったが、心得ていろと言うのならば心得るし、そもそも、希はに対して母親という存在を重ねる以外では、同乗させてもらった馬を操る手綱捌きへの憧憬ぐらいしか思い当たる節がない。
つまり、つい先ほど知盛に対して告白したへの感情の分類をもう一度確認しなおし、面と向かっては初めて告げられた知盛にとってのの存在の重さと特異性を理解してさえいれば、これまでと何も変わらなくていいのだろう。だんだんこんがらがってきた思考を、とりあえず得られた結論のみで無理やり纏めてしまう。
「胡蝶殿は父上の特別な方で、ボクにとっては母上みたいな方。そういうことで、いいのですか?」
「そう理解した上で、けれど口には出すなよ?」
「ボクは、母上に叱られたくはありません」
「“母上”ではなく、“胡蝶”だ」
重ねた確認に本音を返せば、早速のダメ出しを返される。うっかりそう思うことを認められたからと口を衝いてしまった呼称こそ、希がに懇々と説教を受けることになるだろう要因。どう見てもそうなのにと、もごもご口の中で文句を言いながら慌てて「胡蝶殿に、叱られたくはありません」と言いなおした希は、ようやく不機嫌さをほどいてくすくすと喉を鳴らす“父”と目を見合わせ、なんだかどうしようもなくおかしくなっていつの間にか声を立てて笑ってしまっていた。
Fin.
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