その甘やかし方
別に普段から必要以上に無口というわけではないが、決して雄弁でもない“父”の珍しいほどの饒舌さに、気づけば滲むことのなくなっていた視界を持ち上げて希はその真意を探す。まっすぐに降り注いでくる力強い深紫の視線は、魂の奥底深くまでをも貫くかのような偽りのなさ。
告げられた言葉の意味をぼんやりと考える一方、この瞳の強さを身につけたいと、そんなことを思う。
「案ずるな」
おずおずと見上げる視線に何を思ったか、ふとその双眸にやわらかな笑みを煙らせ、知盛は聞き覚えのある言葉を繰り返しておもむろに希の纏っていた水干の紐を引く。
「……父上?」
「お前、今日の分の手習いは終わっていよう?」
「え? あ、はい」
あまりにも自然な調子で紐を解かれてしまったことにきょとんと目を見開けば、脈絡の読めない問いかけを重ねられる。もっとも、この“父”の行動は常に何がしかの意味を伴っているのだ。政治的に重いものから相手をからかうためのものまで、幅の広さもまた半端ないものではあるのだが。
思わず反射的に頷けば、満足げに喉を鳴らして遠慮なく水干を剥ぎ取られる。
「なれば、このまま共寝でもするか」
かくも心細げな様子を見せられては、俺も良心が痛む。
軽やかに、謡うようにそう嘯いて瞳を細め、実に手早く希を小袖一枚にしてしまう。
日頃から単独で扱える部分はひとりで着替えることを好むだけあり、知盛の衣装の扱いは手慣れたものである。扱うのにさほどの不自由がない程度まで簡単に布地を広げて床に置き、自分で畳めと希を膝から下ろして床におざなりに放置されていた書簡を片づけにかかる。
どうやら言葉のままに、これ以上の仕事はせずに眠るつもりらしい。
しばし、今度はこの行動の向こうにどういう思惑が隠されているのだろうかと考えかけて、希は早々にその思索を放棄した。もしかしたら何か、また希にはよくわからない思惑が隠されているのかもしれない。だが、隠されていないかもしれない。
希にわかるのは、このまま知盛が休んでくれるつもりらしいということと、乳飲み子が乳母にそうしてもらうように、添い寝を許されたらしいということ。
「ボクは、もうそんなに小さな子供ではありません」
なんだかとんでもなく幼い子供扱いをされているようで思わず頬を膨らませながら抗議の言葉を紡げば、文箱に書簡を一通り収納し終えたらしい知盛は意地悪くにやりと口の端を吊り上げて視線を流す。
「病身の父を、案じてくれているのだろう? ……なれば、見舞代わりと、そう思え」
からかわれ、はぐらかされたのは明白だったが、幼い矜持を傷つけられたという憤慨よりは甘やかしてもらえることへの欲求の方が強かった。与えられた実に都合のいい言い訳に必死に憮然とした表情を取り繕いながらも、衣服を畳む手の動きが軽いことは隠せない。
仕舞うのに使えと示されたのは、どうやら着替えに予備の単衣を収納していたらしい打乱筥。慣れた手つきで熱によるだろう汗と、それから希の涙と洟とに散々汚れてしまった単衣を肩から落とし、身繕いをしてから燭台の灯りを落とす。
いつの間に雲が晴れたのか、明かり取りからぼんやりと差しこむのは淡い橙色の光。残照だな。そう呟く声が、どこか遠く、儚い。
「……あたたかい、な」
「そうですか?」
褥の足元に無造作に寄せられていた上掛けを引き上げ、希を抱き込んで横たわった知盛は瞼を伏せながらしみじみと呟く。知盛の方が発熱によって体温が高いのにと、思いながら問い返した希に薄く瞳を開け、楽しげに笑う声が「わからなくていい」と続ける。
ならばきっと、わからなくていいことなのだろう。今はまだ。
時々、知盛はとても思わせぶりな言葉を使うくせに、その内容を希が知りたがるのをこうしてやんわりと、しかし確かな力で阻むことがある。そういう時は、基本的にが傍らで苦い表情を浮かべている時だ。どういう線引きがあるのだろうと、気になってこっそり問うてみれば、「希殿には、まだお早いので」と本当に困りきった声を与えられた。
そんな、遠くもない懐かしい遣り取りを思い出したのは、伽羅香を纏う“父”の寝所でありながら、その褥やら上掛けやらから“母”の香りが仄かに漂っていたからだ。どうやら意外に疲れていたのか、そのままもう一度瞼を落とし、本格的に呼吸を深めていく知盛の腕に抱かれ、胸に額を押しつけながら希もまたゆっくりと息を吸い込み、視界を闇に染める。
“父”が早く良くなるように、早く“母”が帰ってきてくれればいいのに。抱いていた願いの深奥に、そして希は自覚の薄かった、くすぐったい願いを見つける。自分も“父”も“母”がいないのが寂しいから、早く帰ってきてくれればいいのに。
寝入りばなのあどけない願いを神仏が聞き届けてくれたのか、“母”の夢を見た。それがとても嬉しかったから目覚めて一番に“父”に報告したというのに、少しだけ不機嫌になってそのままの二度寝を決め込まれてしまったのは、断り続けていた食膳にほんの少しだけ箸をつけてくれた、その日の夕餉の直後のことである。
Fin.
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