君の立ち位置
過ぎ去った日々をやたらと振り返るのは、老人の特権か愚者の自己満足。そう嗤っていればこそ、知盛は学ぶために過去を見遣ることはあっても懐かしむために過去を見遣ったことはない。見据えるべきは現在であり未来だ。もはや動かしがたい時間を振り返るのは、その行動そのものに意味を持たせた時でなくば、無駄でしかない。
だが、自分の中で嗚咽を噛み殺しながら体を丸めている子供を見下ろして意識を馳せる先は間違いなく自身の過去であり、伴う感慨は郷愁。妙なところで、自分も年をとったものだとしみじみ感じ入りながら、小さな背中に重ね見るのは幼かりし己の姿。
「……焦るな」
ふっ、と。胸の奥にゆらゆらと滲みだしてきた郷愁から零れ落ちたのは、そんな一言。
「焦ったところで、年月ばかりは越えられん」
自分はもういい大人で、当人の申告によれば片手で足りる齢の子供は本当に幼くて。
「いずれ、嫌でも大きくなる。それこそ、お前が“己が責”を知るのは、そう遠からぬ日のことだろうさ」
白を纏うにせよ紅を纏うにせよ、刃を手にするにせよしないにせよ。この戦乱がいずこへ向かおうとも、希はその身に流れる血の名から逃れられない。なればこそ、岐路は様々なところに待ち構えており、嫌でもその名の意味を思い知らされる。こうして知盛が手の内に抱き込んでいてやれるのは、本当に、今のうちだけなのだ。
早く早くと、そう焦る思いはきっと薄かった。焦るよりも先に、知盛は諦めを覚えてしまった。偉大な父、完璧な長兄、蒲柳の質ゆえに憐れまれ、時には煙たがられる己。
父は遠く、長兄には及ばぬと悟り、自身の価値と責とは負う名という“殻”にあるのだと思い至った。それがいつのことだったかはもう覚えてもいない。ただ、求められる責を確実にこなすだけの覚悟はあったが、それ以上をあえて欲することもなかった。
他者に侮られることが不愉快だからこそ持てるもの、持つべきもの、持ちうるものは惜しむことなく磨いた。それだけのことであり、早く力を持ちたいとも、早く大人になりたいとも思わなかった。強いて言うなら、長じることができれば些細なことで床づく体質が多少はましになると聞いていたので、己がものでありながらままならぬ身をなんとかするために早く、と思う心があったぐらいだ。
憐れなことと、そう感じる。血に刻まれた名、時流の危うさ、身を置く境遇のいびつさ。希が抱いているのは、ありとあらゆる条件が重なりあったがゆえの焦りだ。性格の違いもそうだろうが、環境の違いゆえに抱く可能性さえなかった葛藤を見透かし、知盛は子供の不運に瞳を眇める。
刃を手にして戦乱の只中を駆け抜けることで役に立ちたいと、その願いはまっすぐで眩い。わずかな時間の中でかほどに己らに対して心を傾けていたのかと、無論そう仕向けている自覚はあったが、改めて目の当たりにした現実にはどことないくすぐったさが胸を噛む。
「は例外だ……アレは、俺が認めた唯一無二の――“鞘”」
そっと解き放たれた声は、やわらかく甘く、まるで酔っているかのようにほどけていた。希を抱いたままぼんやりと宙に視線を投げだし、追いかけるのは未来か過去か、幻想か。
「俺は、お前と同じだ。この身に流れる血ゆえに、果たすべき責がある。対するアレは真逆……しがらみを持たぬがゆえに俺という枷を求め、俺はアレを俺の許に繋ぎとめることを、決めた」
それこそがあの娘の特異性。その名を高めつつある、一門が戦乙女の真相。自分にこうも深く関わりさえしなければ、戦場に出ることなど、一生なかっただろうに。
感慨は果てを知らぬ。だが、同時に逃れ得なかった星宿なのだろうとも思うのは、自分達が知らず纏ってしまった神の理というしがらみゆえに。
「そして我らは、この戦乱において潮の只中にある、世界のコマだ」
きっと子供には知盛の意図する真なる部分は通じていないだろう。いや、たとえ誰がこの独白を聞いていたところで、そこに篭められた最奥の意味には気づくまい。負う名ゆえにと自他共に認める以上の意味がその存在に篭められていると、知っているのはあの神と、そして他にはいったいいかな存在であろう。知盛にとて、そんなことはわからない。
希が仮に戦場に出られるような年齢であり実力があったとしても、と同じように『在る』ことはありえない。それは、きっと自身でさえ知らない、この世界に在る人間では知盛だけが見透かすことができているだろう世界の事情。そして、この世界に還りついた“知盛”だからこそ編み上げることを決めた、唯一無二の関係性。
「俺には俺の、アレにはアレの責があり由縁があり、ゆえの選択の帰結が……今の在り方、だ」
見据えるものはわずかずつ違い、けれど二人は描く未来を掴むために阿鼻叫喚の生き地獄を駆ける。彼女はそのきっかけを知盛に見出し、知盛はその行き先を彼女ゆえに見出した。そこに、第三者の入り込む余地はない。
「翻れば、つまりお前にはお前の責があり、由縁があり、選択があるということ」
だが、だからといって希の存在を排斥しているわけではない。降り積もる言葉に徐々に肩を落としていく姿のあまりの正直さに小さく笑み、知盛は改めて腕の中の子供を抱きかかえなおす。
「何者かと同じようになど、そんな余計なことは、考えるな」
彼女と同じように在れないように、彼女は希と同じように知盛から扱われることはない。知盛が希に向ける感情とまったく同じ種類のものがに向かうことだけは、ありえない。
「探り当てろ。正しく行きつけ。お前にしか果たせぬ、お前の“在り方”に」
今はまだ、自分達の手の内にて守られていていい。かくな幼子は、本来ならば無条件に守られているべきなのだから。
「お前をこうして匿ってやれる時間もまた、限られている……ゆえ、今を焦るな。焦らず、今を見誤らず、見出せ」
それこそが、お前にできること、だ。
Fin.
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