重ね見るのは
「お前、どうしたというのだ」
虚を衝かれたように小さく目を見開き、知盛はまっすぐに希を見やりながら素直に驚愕を滲ませた声を落としていた。
「何をかくも卑屈になっている?」
問いただされても、けれど希も困る。卑屈にと、言われてはじめてそうなのかと思ったぐらいなのだ。その由縁などわかるはずもない。溢れる感情を理性で制御して解析するには、希はあまりに幼いのだ。
自分でもわけのわからない思いに振り回されて情緒が不安定になっていることはわかる。だんだん情動に混乱さえ覚えて破綻していく思考回路に翻弄されるしかなくて、それがさらに情けなくて、混乱はいっそう深まって。ただどうしようもなくなってしまった感情が涙腺の崩壊という形で発現するよりも先に、なけなしの矜持をかき集めて歯を食い縛ると後頭部を軽く押さえる大きな手から抜け出し、俯いてぎゅっと目の前の単衣に縋りつく。
こんな時ほど、自分が幼いことを思い知り、そのことが情けなくて仕方ないことはない。早く大きくなりたいと、心の底から思う。大きくなれば、きっと少しは“父”や“母”に近づける。こんなわけのわからない思いに振り回されることはなくなるだろうし、もっと強くなって、あんなふうにまっすぐに、揺るぎ無く前を見据えていられるだろうに。
無論、それこそ希が幼さゆえに描いている、盲目的な幻影。そして、言葉にして告げられずとも、そんな内心の機微にまで思い至れるほどに希の纏う気配は雄弁であり、知盛はそうした気配の深奥を察することに長けている。
振り切られることで手持無沙汰になった右手を宙で遊ばせる程度の時間があれば、このいかにも素直で過ぎるほどにまっすぐな子供の心の動きは読みとれる。可愛らしいことだと。自分の推測が外れている可能性など微塵も考えずに目尻を和ませ、無意識のうちに緩んだ頬と吊りあがった口の端の感触を遅れて自覚して、そんな自分にいっそう頬が緩み、唇は円弧を描く。
遠慮なく握りしめられた単衣に皺が寄っているだろうことはわかっていたが、殺し切れていない涙によって湿っているのも感じていたし、ぐすぐすと鼻をすする音が聞こえている。
どうせ汗に濡れている。同じ換えるのなら、別に汚れないようにと気を配る必要もあるまい。さすがに素肌に擦りつけられるのは避けたいと、そんな程度のことをぼんやり考えながら、けれど宙で遊んでいた手は躊躇いなく子供の頭を自分の胸に押しつける。
びくりと体が揺れたのは、驚愕ではなく反射からだろう。容赦なくその内心を暴いてやればこそ怯えが多少は付加されるかと思いきや、意外に図太かったらしい子供はあの日以来、知盛に対しての警戒心をほぼ完全に払拭しつつある。
演技が半分と判じていた懐きぶりも、一方で偽りなき本音が半分であったらしい。こうして自分のような地位にあるものが直接子供に構って養育するという異常さを察している様子の反面、そろそろそうして接されることに対しての慣れと、一種の期待と確信じみたものが行動の根底に定着してきている。
生意気なことと、そんな思いがちらと脳裏をよぎりもするが、このぐらいの察しの良さとある意味での強靭さがなければ面白くもないし、育てるのにも面倒だろう。結果論にして偶然の産物ではあるが、自分達はこの奇妙な"親子"関係を築くのになんとも都合のよい組み合わせだったのだと、そう思うことにしていた。
それに、知盛は当初の思惑とはまったく別の意味と感覚で、この養い子のことを気に入っているのだ。
「俺がいつ、お前にかくな扱いを与えた」
癖のある猫っ毛の知盛とは対照的に、希の髪は癖のないまっすぐなものだった。子供特有のやわらかな指ざわりは、他意も何もなく純粋に心地良い。さらさらと手すさびのように髪を梳いてやりながら、紡ぐ声がらしくもなく甘くやわらかなことにも、そろそろ慣れつつある。
拾った時にはあまり意識をしなかったし、そも、あの一瞬でこの子供の性情が見抜けるはずもない。ただ、己が死の淵に追いやられているというのに、逸らすことなくまっすぐに自分を見遣る双眸が興味深かった。そうして見つめてくる無力なくせに力強い瞳に、近いようで遠い逢魔ヶ時の山道を思い出したのだ。
「無論、それは覚えておけ。決して脱ぎ去れるものではなく、忘れるべきものでもない」
思惑は幾重にも。そういう意味では、あの山道での気紛れと先日の炎上する邸の中での気紛れは全く方向が違っている。今でこそ政治的な意味合いを帯びつつある娘と違い、この子供は最初から、政略のための駒としての存在感が重すぎる。だが、少なくとも今のこの場に限って言えば、知盛はそれに関しては確認と念押し程度に留めておく意思があった。
子供が翻弄されている感情の渦の中心は、そうしたしがらみとはまったく別のところにこそあるのだ。
Fin.
back --- next