朔夜のうさぎは夢を見る

見つけてしまった恐怖

 においからしていかにも苦そうだとは思っていたが、知盛はその感慨を微塵も隠そうとしなかった。不機嫌さを前面に押し出して「不味い」と言い切り、あらかじめ枕辺に揃えてあった椀を掴んでもう一度喉を仰のける。
「何か、欲しいものはありますか?」
「酒なぞあれば、文句はないが」
「それは……」
「わかっている」
 希は、知盛が戦う姿を知らない。どうやら強いらしいことは耳にするが、それ以上のことは何も知らない。希が知っている戦場に立つ知盛は、あの日の炎を背に従えて仁王立つ鬼神のごとき姿のみ。返り血に染まり、炎を連想させるのにまるで万年雪のような冷厳さを湛えて、ただ端然と立つ揺るぎ無い姿のみ。
 だから、希は知盛も怪我をするし、そうすれば血が流れるし、行き過ぎれば死ぬという現実がよくわからない。病を得れば床に臥すといういかにも人間じみた理屈が当てはまるという現実が、信じがたい。


 遠からず戻る。そう言い置いて出立した知盛が本当にそう日の経たないうちに戻ってきたのが病ゆえだったのだと、耳にした折りにはどうすればいいのかがわからなかった。わかりはしなかったが、帰邸するなり早々に塗り籠めに引き篭もる直前の横顔を垣間見て、指先が冷えたのは確かだった。
 蒼褪め、やつれ、今にも崩れ落ちそうな儚さなど知りたくもなかった。あの、人ではないような、まるで焔を凍らせて人型をとらせたような存在にこんなにも脆い側面があることが、信じ難かったのだ。
 実父が世を去った実感など微塵も湧かなかったのに、義父が喪われるかもしれない可能性には背筋が凍った。己が保身という観点がなかったと言えば嘘になる。だが、本当に、純粋に希は知盛がいなくなる可能性に怖くなり、不安で不安で仕方なくなったのだ。
「どうした……かくも、心細げな眼をして」
 無茶な要求にさすがに眉間に皺を寄せてしまったというのに、あっさり撤回してみせた“父”はいまだ良いとは言えない顔色でありながら、常のように薄く笑って希の頬に指を滑らせた。武骨で繊細な指先は、少し熱い。きっと、まだ熱が引いていないのだ。


 困ったこと。そう言って溜め息をついた女房頭は、何かできることはないかとおずおず問いかけた希に、優しく笑ってくれた。そうですね、希殿でしたら、無碍にはなさりますまい。そう言って託された薬湯を届け、飲んでもらうという役目は果たせたが、もどかしい思いは殺しきれない。
 病臥する折りには誰もかれもを近づけさせない知盛だったが、一人だけ、例外がいるらしい。彼女がいてくれればと溜め息をつく安芸を見て、ああやはりと、そう思ったことは胸に秘めている。
 誰もかれもが違うと口では言いながら、態度も行動も扱いも、すべてが発言を裏切っている。やはり、この人が“父”ならばあの人が“母”だと思った自分はきっと間違っていなかったと。思いながらも懇々と説得された過去があるものだから、それには従うことにした。
 知盛から自分への扱いが世に言う親子のそれとして随分と常軌を逸していることは、かそけき記憶である実父との関係から容易に察せる。それと同時に、“父”と“母”との関係が世に言うありとあらゆる関係と微妙にずれていることも、おぼろげに察せている。さらには、その関係がとても勁いのに脆くて儚くて、きっと自分がいたずらに手指を伸ばしてはいけない、本当に尊いものなのだろうということも、また。


 からかうように目笑している貌が実はとても優しいことに気付いたのは、いつのことだろう。自覚も実感もないまま、感情が一気に落下していくのをふとした折りに知る。その、自分ではどうしようもない自然落下への恐怖は微塵もない。行きつく先にあるのが優しくて幸せな感情であると、知るではなくわかっている気がしていた。
 大きな手に自分のちっぽけな手を添えて、頬をすりよせて希は瞼を落とす。理屈などない。ただ、無性に泣きたくなって、我慢しきれる自信がなくなって、心細くなったのだ。
 ほんの二月前の、いっそ無慈悲で暴力的なほどの糾弾を境に、自分の中から警戒心が驚異的な速度で薄れているのは感じていた。この人の前では強がるだけ無駄なのだと、それは一種の悟りだったのかもしれない。ただそう思い至って、どれほど不器用にでも甘えたいのだと、縋りたいのだと指を伸ばせば、決して振り払われないことを知るには十分なほどの時間をもまた過ごした。
 光を締め出した視界の向こうでやわらかく息を吐く音が聞こえ、頬に添えられていた指が未練などなく引き抜かれて代わりに両脇を抱えられる。
「まるで、お前こそが病を得ているようだ」
 膝に抱いてもらえるのだという確信のとおり、鼻先が単衣越しに硬く熱い胸板にぶつかり、少しだけ痛くて薄目を開ける。だが、何か言おうと息を吸い込むことで肺腑に満たされた淡い伽羅香が嬉しくて、そのまま口を噤みなおす。
「案ずるな。この程度、慣れている」
 ぽんぽんと背中を軽く叩かれ、常よりは覇気の薄い、けれど常と同じくどことなくやわらかい声が口に出した覚えのない不安を宥める。

Fin.

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