ゆうひかげ
必要な情報はきちんと出してくれるのだが、それこそ自邸に仕える面々の手腕を正しく把握している知盛は、そのぎりぎりの線を見極めることに非常に長けている反面、余裕をもって知らせるということにあまり気遣いを割いてくれない。
「手持ちのもので事足りる。祓いの手配も、別に急ぐことはあるまい」
「では、日取りなど決まりましたら、早めに教えていただけると大変助かります」
「……善処しようか」
念には念をと思って釘を刺したのだが、返される声と視線はあからさまに笑っていた。よもや、自分はまた墓穴を掘ったのだろうかとうっかり気分が塞ぎかけるが、決定的に困ることだけはしない主人の良心を信じる以外にもはや手はない。
「重ねて、よろしくお願いいたします」
完全に向き直って深々と頭を下げ、は笑声に混じって「戻るぞ」という言葉が後頭部に降るのを受け、腰を伸ばす。
「矢羽を用立てるには、幾羽か狩らねばならん。ついでだ。お前の分も、誂えるか」
「よろしいのですか?」
階を上り、もう日も暮れるからと御簾を降ろして振り返れば、薄闇の中でもはきと知れる主人の眼差しに遭遇する。
院主催の流鏑馬用の矢羽となれば無論、傷もなく美しいものでなければならないため一羽しか狩らないということはないと思っていたが、目的が目的なのだから、たとえついでとはいえ自分にまで目をかけてもらえるとは微塵も思っていなかった。
この世界においては絶滅の危機とは無縁だろうが、神事に用いることが可能ならば希少性が高いか、あるいは神秘性の高い鳥としてそれなりに敬われているはず。朱鷺が絶滅危惧種という常識をどうしても拭いきれないにしてみれば、狩りの負担やその他のしがらみが云々という点とは別に、罰当たりという感慨さえ浮かぶ提案である。
「その代わり、お前も付き合えよ」
しかも、どうやら知盛は自ら狩りに出る気であるらしい。
ありとあらゆる意味で段々気が重くなりつつあるが、誘いはありがたいし、野に出られるということは、それと認識して仰いだことのない、美しい朱鷺色の羽が蒼穹を背に翻る姿を目の当たりにできる可能性が高いということだ。
「もしよろしければ、野狩りというのはいかがでしょう? 安芸殿や、他の皆様もお誘いして」
「おや? 蓮華の君は、俺との遠乗りでは嫌だと申される」
「そういう意味ではないと、おわかりでしょう?」
ついでに他の面々にも息抜きをさせてはと提案に提案を重ねれば、明らかなからかいと揶揄を返される。
どうやら、今日の主人はとても機嫌が良く、で遊ぶ気分に満ち溢れているらしい。語調のやわらかさに甘えて少々強気な言葉を選んでも、知盛の笑みは変わらない。
くつくつと喉を鳴らしながら「まぁな」と頷き、思案げに視線を宙に滑らせる。
「しかし、安芸がいるとなると、あまり自由に動き回れんか」
「鳥を幾羽か狩るだけと申されますのに、何をなさるおつもりなのです?」
「せっかくだから、お前にも狩らせてやろうかと思ったのだが」
「飛ぶ鳥を射止めるには、腕が足りないと自認しています」
確かに、いかにも自由気ままな発想による計画を練っていたらしいが、厳格な女房殿の居合わせる場では実現不可能な夢想というもの。それに、としてはこれを機に季節の薬草を摘み歩きたいと目論んでいたのだ。
動き回る小さな的を射落とすだけの腕がないのも事実だが、思いがけず怪我の巧妙だったと、胸を撫で下ろすのを止められない。
「なれば、楽しみは次にとっておくとするか」
素直に諦めてくれたのか、それとも何か代替案を思いついて妥協したのかまでは読み取れなかったが、少なくとも今回の野狩りにおいて、安芸の眉間にいらぬしわを刻むようなまねはせずにすむらしい。深く追求して藪から蛇を追い出すのは本意ではない。言葉を信じて「そうしてください」とだけいらえておき、気を取り直したは改めて知盛をまっすぐに仰ぐと、にこりと笑いかける。
「お誘いいただいてとても嬉しいです。ありがとうございます」
知盛は非常に厄介な主であると同時に基本的ににとって非常に良い主人だが、それはこの邸に仕えるすべてのものにとっての共通認識であると思っている。
知盛邸以外の仕え先を知らないを気にかけてか、それとも自戒を篭めてか、ことあるごとにかほどの主人はそうそういない。これを常識と思い、甘えて増長することのないようにと釘を差されていることも手伝って、は礼の言葉と態度を欠かさないことを己に戒めている。
何気なく手向けられているのかもしれない。だとすればこれは才能であり、知盛の人間性。なればこそ、敬意を忘れてはいけないと思うし、自分もそう在りたいと願うのだ。
だというのに、こうして礼の言葉を手向け、感慨を明け渡すたびに知盛は照れたような戸惑ったような、どうにも複雑な反応を示す。
実は、そんな珍しい側面を垣間見られる貴重な機会であるという下心もあることは、何事にも妙に聡いくせにきっと気づいていないだろうと確信しているから、丁寧に覆い隠した上で放っておく。
「冷えてまいりましたね。もう整っているでしょうから、すぐに、膳をお持ちいたします」
「ん、そうだな」
けれど同時に、は知らない。残照に照らされた雲にも似た色味に知らず頬を染める自分のことを、暗く沈む夕闇の中に認めてひそかに笑う知盛を。そして、同じように自分だけが楽しめば良いのだからと、こちらは指摘をしないばかりではなく、余計な浮名など流れぬよう確かに確かに罠を張り続けているということも。
(君がそうして無邪気に魅入られているから)
ゆうひかげ
(私は、世界の彩りに嫉妬して、)
(君の彩りを知っていく)
Fin.