狐日和
薬は入用か、と。夜闇の底から不意に湧いた声は、前触れもなく、挨拶もなく、おかしげに揺らぎながら問いかけてきた。
「媚薬も、惚れ薬も、自我を奪う薬も。お前が想定するありとあらゆるすべてに比べて、効果は段違いだ。そして確実」
「……知っている」
「なら、どうする? お前相手になら、安くしておくぞ」
「信用ならんな」
「むやみに“ヒト”を疑うものじゃないぞ」
「ヒト?」
笑う声に嗤いながら問い返し、問いながら見向きもせずに酒で満たした傍らの杯が、音もなくさらわれるのを感じている。わずかに遅れて、漂うのは花の香り。この世にあらざる、甘い、甘い、痺れるようでいて清廉な。
「おや。御身には、この身はどのように映っておいでやら」
くすくすと喉を鳴らす音は、いつしか高く細い、鈴のような女の声に。横目に振り返れば、凄絶な色気を湛えた細い喉元が、こくりと動いて何かを飲み下し、やはり横目に男を見て笑う。
「いかがなさいました? 昨夜はあれほど、あまやかに、わたくしを求めてくださったではありませんか」
「………悪趣味もほどほどにしろ、狐」
「あら、あら」
杯を下ろし、袖口で口元を上品に覆ってほほ、と笑った美しい姫君が、月光を弾くアヤカシの姿へと変じる。美しき魔性。蠱惑という言葉を、男はこのアヤカシに出会った時に初めて理解した。
見るものが見れば襤褸着と散々にけなされかねない実に質素な衣を身に纏い、アヤカシは気楽な調子で杯に酒を追加した。
白く抜けるような肌。白銀の髪。黄金色の瞳。紅色の唇。
わざわざ女の姿になど化ける必要はない。このアヤカシは、魔性だ。男も女も狂わされる。惹きつけられて、呑みこまれる。
「で? 薬は、入用か?」
おかしげに笑う声は既に耳慣れている。だが、それが擬態ではなく心底からのものだということに、男は機嫌よく揺れる耳から察していた。銀色の髪から突き出た、獣の耳。男がアヤカシを狐と呼ぶのは、別に揶揄してのことではない。アヤカシは、狐なのだ。
「薬を使うほど、俺が困窮しているとでも?」
「劣情の捌け口には、困っていないようだな」
「なれば、必要あるまい」
「そうか?」
軽やかに言葉をやりとりして、アヤカシはひそりと微笑んだ。その時の気配ばかりは、男の知る、京の北端に鎮座まします尊き龍神に似ていると思う。かの神には及ばねど、アヤカシもまた、男の知らぬ時を生きる存在。千年を生きれば、こうしてすべてを睥睨できるようになるのだろうか。
「忘れ薬もあるぞ?」
男の気に入りの酒を遠慮なく干しながら、アヤカシは喉で笑った。
「しかも、自在に操れる。忘れさせたい記憶のみを消し、忘れさせたくない記憶は残せる代物だ」
「……お前、ナニモノだ」
「盗賊だよ」
心底の呆れを交えて男が漏らせば、くつくつと笑ってアヤカシは軽やかに嘯いた。
「これでも、魔界では名の知れた盗賊でね。狙った獲物は逃さない。やり口は残忍非道。俺の名を聞けば、そこらの妖怪はみんな道を譲る」
お前のような身の程知らずは、そうそういない。嘯く言葉はあまりに物騒で、けれど声音が軽やかだから、男は真面目に取り合わない。アヤカシがそこらにいる魑魅魍魎となど、比べ物にならないほど格が違うのは知っていた。知っていて、つい最近になって、より深く理解した。まだ、この世には男の与り知らないことが五万と存在するらしい。
「けれどお前は馬鹿じゃない。俺との距離を、見誤らない。だから、俺はお前が気に入っているし、お前にならば薬を分けてやってもいいと思う」
「光栄だ、と……そう、言うべきか?」
「俺のような妖怪に目をつけられたのは、不幸なことなんだろうがな」
「アヤカシも、カミも、大差あるまいよ」
深々と息を吐き出し、男はようやくアヤカシの手から酒の入った盃を奪い取ることが適った。
音からするに、もはや瓶子の中の酒は残りわずかだろう。一息に煽るようなことはせず、舌を湿らせる程度にしてほんの少しずつ、飲み込んでいく。
「欲しいのなら、奪ってしまえばいいだろうが」
「それでは意味がない」
「なぜ?」
「わからんからだ」
問いに対して偽ることなく答えてやったというのに、アヤカシは珍しくもぽかりと口を開け、信じられないものを見るような目つきで男を凝視する。
「抱きたいと思う。惜しいとも思う。どこの誰とも知れぬ男になど、渡す気はない。かといって、閉じ込めておくことばかりが正しいとも思えない」
――どうしたいかもわからんままに、薬なぞ、使っても意味はなかろう。
苦々しく、忌々しく。落とされた声音は、つまり真逆の真意を語る。どうしたいかを自覚しているなら、男はアヤカシが齎す、ヒトの世にあらざる薬を使うことも、躊躇したりなどしないというのだ。
弾かれるように笑う声は、月下に似つかわしくない明るさできらきらと輝いていた。夜のしじまに不似合いな笑声を、けれど男は咎めない。アヤカシの声が聞こえるものは限られている。
男はアヤカシが強い力を持っていることをわかっている。これほどの力があれば、徒人にも見て、聞いて、感じることができように、アヤカシはあえてそれをしない。そこらにいる魑魅魍魎と同じように、ある程度の力のある人間にしか見えないようにして、こうして時折り男を訪ねる。
「だが、そうだな。せっかく訪ねてくれたんだ。ひとつ、欲しいものがある」
「いいぜ、何にする? 媚薬も、忘れ薬も、望むように調合してやるぞ?」
「材木だ」
からかうような、包み込むような。己よりも年若い見かけの癖に、己よりもずっと長い年月を生きているアヤカシを前に、男は静かに口の端を吊り上げた。
「年経た、強い力を持つ木の、それなりの一枝が欲しい」
「枝? 杖でも作る気か?」
「刀を、鍛えさせている」
刃自体は、これはもう鍛え上げるしかあるまい。祈りを篭め、力ある地で、力ある水をもって。そうして神剣とも思いたくなるような一振りをあつらえることは可能だが、それを納めるにふさわしい鞘は、ふさわしい材木を探し出さねばならないのだ。祈り、祓い、清めてもいい。無論、それも必要だ。だが、叶うことならふさわしい存在が欲しかった。
真に神剣をあつらえるなら、神域からいくらなりとも材木を調達できよう。だが、これは男の私的な目的で行っていること。かの龍神ならばその神域から枝の一振り、いただいても文句はなかろうが、それは男の意地が許さなかった。
娘は己に守りをくれた。護身符の代わりになればと、祈りを篭めた、紫水晶を。
男は娘に身を守る術を与えてやった。それはいつしか戦う術となり、軍場を駆けるための術となり、娘はあまりに鮮やかな覚悟を知らしめた。
世に逸品と謡われる刀を与えることは、男の身分をもってすれば難しいことではない。だが、それでは足りないと思ったのだ。そんなありきたりな刃は、あの娘には似合わない。きっと、当人もまだ自覚はしていないその類稀なる、恐らくはこの世に二人といないだろう異能にさえ耐えうるのは、見劣りしないのは。きっと、陰陽師やら神職やらをもひれ伏させるような、真に研ぎ澄まされた刃でしかあるまい。
「俺は、木や草花と言葉を交わすことなど、できん。だが、お前ならば分けていただくことも、叶うのだろう?」
男は、アヤカシが大地と共に生きていることを知っている。草花を愛で、木々と語り合い、ヒトをアヤカシを残忍に切り刻む。そして男は、アヤカシから害を受けたことがない。
「そうだな、いくつか心当たりを当たってみよう」
わずかに唇を歪めただけで、そこには不敵な盗賊が現れる。疑う必要はない。契約は、結ばれた。
「対価は?」
「次までに考えておく」
言って立ち上がる気配があったと思えば、既にアヤカシは消えていた。
Fin.