朔夜のうさぎは夢を見る

狐日和

 さて、アヤカシは確かに男の要望に応えてくれた。依頼を伝えた翌々日の朝には、使用頻度のめっきり下がった男の私室の、御帳台に白木が無造作に放り込まれていた。
 一見しただけでは普通の材木であったし、男には特異性はわからない。それでも、アヤカシを疑うだけの根拠もないことから素直に信じて鞘を誂えさせてみれば、なるほど、さすがはこの世の常識を超えた存在が持ち込んだ材木。まるで朱塗りを重ねた鞘のように、滅多なことでは汚れを寄せ付けず、水につけても傷む様子などなく、異様な存在感を誇る。
 かほどの鞘であれば、使い方も御し方も示さぬまま、神に一方的な“対価”として置き去りにされた力を収めるのに足るやもしれない。神が地に降り立つ社を訪ねて言葉を交わして以来、常識からは考え難いほどの速度で才能と呼ぶしかない剣の腕の上達を見せる娘を横目に、男は与えるべき刃の鋭利な切っ先に、裏腹な祈りを篭める。
 どうか、この刃は何もかもを見境なく切り裂くような、そんな暴力の権化ではないようにと。


「らしくない貌をしているな?」
 お前、刀剣の類が好きなんじゃなかったのか。そう軽口を叩きながら、月明かりから滲み出るようにして庭に影を結んだアヤカシに、やっと手許に揃った刀と鞘とを見ながら物思いに耽っていた男もまたけぶるような仕草で視線を持ち上げた。
「神剣と呼んでも見劣りしないような刀を、あれほど急かして鍛えさせているのだからと、急いで見繕ってやったんだぜ? 間にあったというのに、どうしてそんな貌をしている」
 いかにも嘆かわしいと、声音が雄弁に物語る。だが、その雄弁さこそが空々しい。ようやく空へと昇りはじめた臥待月を背に立つアヤカシの表情は、詳細にはうかがえない。それでも、口の端がにったりとおかしげに吊りあがっているのを見逃すほど、男はこのアヤカシを侮っていないし、買いかぶってもいない。
「この刃を与えるということの意味を、考えていた」
 囁き声がやっと届くか届かないか、といった距離で立ち止まり、豪然と見下ろしてくる黄金色の瞳をちらと一瞥してから再び視線を落とし、男は鞘に収まったままの刀をそっと撫でた。
「これを与えるということは、教えることがなくなったと伝えること。アレは聡いくせに妙に鈍い。あの、恐ろしいほどの武の才の発露を、まるで理解できておらん」
 こぼしたのは、これまで誰にも語らず、ひたすら胸の奥底に溜めこみ続けていた、男の迷い。
「刃を手にすれば、あの娘は軍場へと駆けていくだろう。迷い、怯え、恐れ、悔い、己を責め立てながらも、何かに駆り立てられるように」
「何かに?」
 絞り出すようにして紡いだ男の言葉尻を、アヤカシの冷笑交じりの声がさらう。
「違うだろう。お前に、だ」


 くすくすと喉を鳴らすその気配は軽やかだが、存在するだけで放たれる威圧感が男の反駁を許さない。
「刃を持つということ、その扱いを知るということ、身に付けた技術を軍場で発揮するということ。これらはすべて、矛盾に身を投じるということだ。お前だって、わかっているんだろう?」
 問いかける口調でありながら男の返答など待つそぶりもなく、アヤカシは言葉を重ねていく。
「迷うのは勝手だがな。お前、このままでは喪うぞ」
 軍場に出るということは、誰かの命を奪うということ。誰かに命を、奪われるということ。それらの可能性は相反する矛盾そのもの。しかし境界線はあまりにあやふやで、誰にも、それこそ長きを生きているアヤカシにも、確たる予測はなしえない。
 男は、どうしたいかがわからないと言っていた。言っていたくせに、その頃には男の手中から飛び出す術など持っていなかった、あるいは少なくとも気づいていなかっただろう大切な大切な存在に翼を与え、囲いからまさに解き放とうとしている。誰の目にも矛盾とわかる男の決断と懊悩が、アヤカシにはおかしくてたまらない。
「いったいお前はどうしたいんだ?」
 遠からぬ記憶において聞き覚えのある言葉を、アヤカシは男に突きつける。それに、男はなんと返したのだったか。


 視界の中心で何かがバタバタと動いていることに気付き、蔵馬は小さく息を呑んだ。
「お、やーっと気がついた」
 そのまま、俯きがちだった視線を持ち上げるのと、動いていたものの正体である大きな手の持ち主、幽助が笑いながら声を上げるのも同時。
「どうしたんだよ。いきなりぼーっとしちまうなんて、らしくねぇな」
「俺、そんなにぼんやりしていました?」
「してたしてた! 呼んでも聞こえてねぇみたいだし」
「コエンマ、仕切り直しってわけにはいかないんか? 蔵馬がこれじゃ、効率悪ぃだろ」
「ああ、大丈夫ですよ桑原くん」
 あっけらかんと伝えながらも表情を曇らせる幽助に淡くはにかんだ蔵馬は、こちらはわかりやすく気遣ってくれる桑原と、その視線の先にいる霊界コンビに頷いてみせる。
「すみません。個人的にあまりにも衝撃が強かったので、ついうっかり回想に耽ってしまいました」
 集うのは、主がこの世を去ってもなお多くの客人で賑わう、幻海の山寺。仕事の都合で少しばかり遅刻した蔵馬が見たのは、幽助に桑原、飛影、コエンマ、ぼたんといういつもの顔ぶれに、見慣れない二つの人影。まるで夜闇のような仄かに青みを帯びた黒髪をひとつにくくった娘と、銀色の短髪を揺らす青年。
 娘に見覚えはあまりなかったが、青年の容貌には、うっかり遙かな記憶に呑まれるほどの覚えがある。しっとりと主張を抑えながらも揺るぎないたたずまいは、凛とした気配は、遠い遠い彼方の日々において触れた束の間の交友にあまりにもよく似ている。


 しかし、それはこの場に集う誰にもわかってもらえない感慨。あの日々を共に過ごした存在は、この人間界にはいるはずもない。同じ時を刻んだというなら魔界には黄泉がいるが、彼はあの男を知らない。
 そういえば結局、対価は何を要求したのだったろう。気づけば歴史の潮に呑まれ、海の藻屑と消えてしまった男。気紛れに温めていた交友は、ある日唐突に断ち切られ、二度と掴みなおすことはできなかった。掘り起こしてしまった記憶に切なく胸を引き攣らせながら、蔵馬は表情を取り繕って場の空気を整えなおすことに専念する。
「ええと、はじめまして――」
 だというのに、絞り出すようにして紡いだ言葉尻をさらうのは、いつかとは真逆の、愉悦に揺れる低い声。いたずらげに笑う双眸の深紫色を、蔵馬は鮮やかに覚えている。
「“悪趣味もほどほどにしろ、狐”」
 それは、遠い遠い日の春の夜に聞いたのと同じ言葉。だから蔵馬は中途半端に途切れてしまった記憶を漁りなおすのは放棄して、改めて聞いてみることにした。
「どうしたいかは、決まったのか?」
 もっとも、答えは聞くまでもない。青年の隣に佇む娘が大事そうに抱える袱紗の向こうに察した覚えのある気配の正体にも、浅からぬ縁と思い出があるのだから。

Fin.

back

back to another world index
http://crescent.mugetsunoyo.yomibitoshirazu.com/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。