朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 邸の奥から響いていた一方的な怒号が収まったのを聞き取り、得られた限りの情報をもらい受けていた弁慶は、うっかりくすりと笑声をこぼしてしまった。
「何だよ、急に」
「ああ、いえ。すみません。どうやら、もうひと波乱ありそうだと思いまして」
「あそこの身内の結束は、本物だからね」
「それは、どこか比較対象があっての話ですか?」
 素直な謝罪に対して返された痛烈な皮肉に、白々しく問いを差し向ければヒノエはそれこそ憐憫を素直に浮かべながらあっさり頷く。
「まあ、相手が悪すぎるってのもあるだろうけど」
 あえて明示はされなかったと思われる比較対象とはそれこそ対照的に、たしかに勝負にもならないのは分の悪さゆえでもあろう。
 なんだかんだと物騒な噂も聞くが、平家の新中納言は亡き小松内府と同様、人格者という評価が高い。怒号の主はさらに、仮面に隠されたそれではなく、ごく限られた相手にのみ発揮される本物の側面を享受する立場にあることが明白なのだ。
「どう転ぶと思う?」
「さあ、こればかりはわかりませんよ」
 くるりと瞬きながら面白そうに問いかけられ、弁慶は再びごくごく素直に溜め息をつきながら首を横に振った。


 あまりにあっけない反応はどうやら甥の好むところではなかったらしいが、他には何を言うこともできないというのが弁慶の本音。だって、わかっているのは、これが自分達が口出しをすべきではない話題だということだけなのだから。
「将臣くんのあの性情は、まったくもって眩しい限りですがね。知盛殿がおっしゃるだろうことは、微塵の隙もなく正論でしょうし」
 それでも、詳細はわからないながらも一応と思って付け加えた弁慶なりの推測には、少しばかり予想と違う方向からの反応が返される。
「あれ? あっちの顛末は把握してないわけ?」
「高く買ってもらえているのはありがたいですが。この状況になってなおまだ使える手札を残しておいでだったことには、驚くだけですよ」
「ふぅん」
 意外さと感心を溶かし合わせたような相槌を打ったヒノエに、弁慶はもう一度頭を振ってから視線を向け直す。
「いずれにせよ、結果が出るまでできることはありません。続きをお願いできますか?」
「まあ、そうだね。どうせ、遠からず結論は知れるんだし?」
「そういうことです」
 話を中断させたきっかけが自身の反応だったことを棚に上げた弁慶に特に何を言うこともなく、ヒノエはくつりと喉を鳴らしてから話題を引き戻す。そう、別に慌てることはない。どうせ近日中には結論を知ることができるのだし、結論がどうなろうと、ヒノエの用立てた旅支度は余すことなく使われる。西に向かうか、北に向かうかの違いが出るぐらいで。


 半端に情報を垣間見せられれば気になるのが人情というものだろうが、あいにくと、今の弁慶にはなすべきこと以外に手を広げるだけのゆとりなどあるはずもなかった。烏によって集められた情報を分析し、別当家に寄せられる鎌倉からの大義名分を元にその裏を読む。
 この際、もはや使い物にならない放心状態の九郎には碌な相談も持ちかけなかったのだが、責められるいわれはないし、責められたところで言いくるめるだけの手札は存分に。実力行使に訴えられては分が悪いが、恐らくは寡黙な地の玄武あたりが味方になってくれると踏んでいる。彼は彼で弁慶とは違う思惑を持っているようだったが、少なくともここで九郎を喪うことを由としていないことは確信している。
 彼が第一義として守り抜くのは、八葉としての立場。そして、神子を至上と掲げるからには、八葉がこれ以上欠けることを許容するはずもなく、九郎が生き延びる可能性が最も高いこの選択を否定するはずがない。
 白き龍の神子が往くなら、八葉は道を共にする。白き龍神はもちろん、対なる神子もまた。
 ただし、何事にも例外はつきものであり、この場合弁慶が例外として行方を判断しあぐねているのが、天の青龍の選ぶ道であった。


 彼が単独でこの場にいるならば、きっと同道を迷いはしなかったろう。何せ彼にはもう行く場所がない。熊野から南に延びるには、あまりにも手勢が足りな過ぎる。還内府としてありとあらゆる情報に精通していたとしても、人脈はまだ足りないだろう。そして何より、彼は情に深すぎる。
 最大の懸念であったろう平家一門の行く末は、もはや彼の手を離れた。となれば、彼の情念が次に注がれるのはきっと弟君と幼馴染の少女の許。彼らが危険な道を行くなら、それを守るべしと考える。あるいは、敵同士であったにも関わらず、兄に理不尽な罪状を突きつけられた九郎を庇って逃亡のために己の船を貸してくれたのだ。天地の対の危難を見過ごすことはないかもしれない。
 けれど、彼は一人ではなかった。
 将臣には、知盛がいる。還内府として獲得したありとあらゆるものでさえ、このまま単騎で別の道を往くには不足していたとしても、新中納言が共に在るならば話は別だ。知盛の手中には、将臣が手にしきれなかったすべてがあり、それを己とその周囲とに振り分けるだけの猶予さえあるだろう。
 猛将としての戦績と戦跡とがあまりに目覚ましかったため見誤っている者も少なからぬようだったが、弁慶は知盛の、いっそ老獪とさえ称せるだろう智将としての実力を知っている。還内府に新中納言という、源氏方からすればあまりに大きすぎる名前でさえ、隠しおおせていずこかに延びることは可能だろう。それだけの手立てを整えられたから、きっと将臣のあの怒号であり、ヒノエのあの笑みなのだ。

Fin.

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