夢追い人の見る夢は
「遠からず、復調なさるだろう。もう、心配はいらない」
時間は確かにかかるだろうが、問題あるまい。なにせ、彼はあの乱戦を生き抜いたにしてはあまりにも傷が軽く、その絡操を、泰衡も銀も、嫌というほど知りすぎていて。
「これも、白龍様のご加護でしょうか」
「罪滅ぼしだろうよ」
そして、その絡操を正確に察する者こそが抱きかねない絶望が、神の奇蹟によって覆されていることも。
「いずれにせよ、恩寵であることに変わりはありますまい」
その奇蹟の権化は、泰衡と銀の会話がひと段落した隙を狙って言葉を滑り込ませ、いまだ蒼白い頬に、それでも確かにあたたかな笑みを刷く。
「心を芽生えさせたがために理を見失い、けれどその心の呵責に耐えかねるなど。あまりに、あまりにヒトらしいことではありませんか」
「それゆえに、あれほどの被害を被ったと申されるのに。寛容なことだ」
「齎された恩寵がなければ、呪いもしたでしょうが」
いいのです。知盛様がご無事なら、それで。
はんなりと微笑んで、やはり庭に佇んでいたはゆっくりと足を進める。
階に足をかければ、そっと手を伸べた泰衡が大事に抱え込んでいた包みを取り上げ、すかさず脇に回った銀が宙を泳ぐ指先をとって間違っても転ばないようにと気遣う。
「今度は何を?」
「秀衡様が、茶葉を見つけたからと譲ってくださったのです。ただ水を含むだけよりも、煎じたものでしたら、少しは効能があるかと思いまして」
「一理、あるやもしれないな」
神子の負った穢れを肩代わりして昏倒した娘が、気づけばさらに血まみれになって褥に伏せっていたと報せを受けた折りにはそれこそ血の気が引く思いをした泰衡だったが、そんな心臓に悪い事実を誰よりも狂乱するだろう相手に告げることなく、すべては新しい現実に塗り替えられた。
鎌倉に憑いていた邪神を滅し、人の戦に勝ち、そして冬晴れの蒼穹には荘厳なる龍神が舞った。神が徒人の目にさえ映るという、それだけでも奇蹟だというのに、さまざまな混乱に乗じて、神はどうやらひとつ、さらにありうべからず奇蹟を置き土産にしてくれたらしい。
報せを受け、前線に出ていたわけではないため怪我こそ負ってはいないが、強大な術の行使に疲弊しきった体に鞭打って出向いてみれば、同じく呼び出されていたのだろう医師が枕辺で言葉を失っていた。
血が流れていた。夜着を染め、褥を染め、床板にもべっとりと付着したその量は尋常ではなく、一目見た瞬間、泰衡は知らせを受けてからずっと考えていた可能性が事実であることを直観した。きっと、彼女はその身に宿る異能を行使したのだろうと。その相手は、今度こそ彼女が自発的に思いを向ける先であろうと。
尋常ではない異能を行使する彼女は、鍛えた体でもないわりに、傷や病の類には不可思議な強さをみせた。それでも、物事には限度がある。さすがに今回ばかりは無謀に過ぎたのではないかと思い、きっとこの流された血と引き換えに此岸にまた引き留められたのだろう彼に、いったいなんと伝えれば良いのかと嘆かわしく思った。だというのに、ようやく声を取り戻した医師は「ありえない」と呟いたのだ。
由縁はわからない。けれど、かほどに血を流しているというのに。なのに、彼女はひどく弱ってはいるものの生きていて、その命が風前の灯というわけでもないのだと。
もはや奇蹟という言葉しか思いつかなかった。ヒトの理ではありうべからざる、そして彼女の異能だけでは片づけきれない、奇蹟。
神子が、八葉が負った傷は癒さなかったのに、彼女が好き好んで引き受けた傷を癒して去るなどと、どういった心境の変化だったのだろう。問いただしたくとももはや問うべき相手はこの世界には存在しない。かつての龍は滅び、そして新しく生じたのだから。
「では、失礼いたします。台盤所に、寄らせていただきますので」
「ご無理はなさらないよう」
傷は癒えたとはいえ、それでも彼女もまた病み上がりの身。ついつい忠告を差し向ければ、さらりと笑んで「お言葉、ありがたく」と切り返される。
「……いささか、心安くなられたか?」
「泰衡様に、心を許されている証にございましょう」
今までにない反応に少なからず驚き、思わず呟けば笑みに縁取られた声が、それこそどこかほろ苦く告げる。
「あれほど自然に笑っておいでなのは、私も久方ぶりに拝見いたしました。大切に大切にお守りいただいた、そのおかげでございますね」
あくまで臣下としての言葉遣いでありながら、それは彼女と、そして彼女が必死に追いかける彼と日々を共に過ごした過去があればこその感慨。それを忘れて彼女に爪をたてかけたがゆえの、ひそかな懺悔。泰衡が掲げ続けていた自己満足が成就したのだと、図らずも証す言葉。彼の心に適うように、自分は彼女のことを守りきることができたのだろうと。
「ならば喜ばしく、誇らしい限りだな」
そしてここをひとつの区切りに、また歩み出そうか。小さく、あどけなく微笑んでから、泰衡は表情を引き締めて銀を見やる。
「まだしばらく、手伝っていただけるか?」
膝を折る必要などないのだと、言っても聞いてもらえないなら、諦めればいいのだ。事実、申し出はありがたい限り。今の平泉は、慣れない戦役からの回復と獲得した新しい地位におけるさらなる飛躍のため、優秀な人材が欲しくてたまらない。そして、彼の手を借りれば、次に目を覚ました知盛にきっと、より美しい、自分の愛するこの国をみせることができる。
「対価を、お求めください。これまでのご厚意と、現状と、これからの平泉のために」
私はきっと、あなたのお力になれるでしょう。
にこりと笑いながら告げられたのは、遠からぬ日の宵に聞いたのとよく似た言葉。まったく、見目ばかりではなく、何もかもが似ている兄弟であることだと。
堪え切れなかった溜め息に、けれど確かに安堵の色が滲む。
Fin.