夢追い人の見る夢は
彼女こそが唯一無二だと、彼は知っていた。
彼女こそが、あの男に情動を抱かせる。
あの男が憤るのは、彼女が害われることに対して。彼女が嘆くことについてであり、彼女が厭うことについてである。
彼女が喜ぶことは嬉しい。
彼女が怒ることは悲しい。
彼女が幸せであることは、幸い。
感情が欠如しているわけではない。ただ、あまりに律し、殺しすぎた日々が、男自身にさえ不安と不審を植えつけた。
自らの心の動きをも疑うという、悲しい不和を。
ゆえにあの男は彼女を必要とする。彼女を指標に、自らの心を推し量る。掴むべき倖を、模索する。
一分の乱れもない無表情で枕辺に座り込む姿は、静謐で神聖な狂気を醸し出していた。凛と背筋を伸ばし、顎を引いて瞼を薄く開くのみ。それを見て将臣の下した、人形のようだとの評は確かに的を射ているが、正しくはない。なぜなら、人形はかほどの狂気をみせたりしえないからだ。
静かに、静かに。刻一刻と世界には光が満ちるのに、彼の周りには闇が沈む。きりきりと、決して断ち切られてはならない何かが、静かに引き絞られていく。
不意に、動いたのは指先がやわらかく。けれどそれが最後の一線。超えてはならない関。踏んではならない最初の一歩。
確かな怯えと不確かな怒りを滲ませて、指先は眠る影の冷たい頬を優しく辿る。
言葉などなく、けれどそれこそが別れの儀式で出立の報せ。そしてお前が呼ぶまで、指先はもう優しくやわらかく脆いものに触れはしない。
冷えた感覚で肉を断つ手応えを知る。熱い血潮に濡れ、頑なに柄を握る。
忘れたわけでも失ったわけでもない。ただ、男には他に術が思いつかない。憤怒と憎悪に満ちて氷雪のように冷えきった思考回路が導けたのは、ただその選択肢のみだったのだろうと、彼は察することができていた。
そっと身を潜めて見送ったその光景を思い出したのは、妥当なのか、不謹慎なのか。とっさには判断をつけかねて、銀はほろ苦く笑う。
従僕として侍りながら、けれどかつてよりはよほど自由な振る舞いを許されることに甘えて、大切な人を見舞ってから職務に戻ろうと思った。無論、先客がいることはわかりきっていたし、その人の邪魔をするつもりもなかった。ゆえに気配を殺してそっと庭から回り込んでみて、結局、踏み込むことは諦めた。
あの男にとって彼女が唯一無二であるように、彼女にとっても、あの男が唯一無二なのだ。そのことも、知っていたはずなのに。
もう、優しくやわらかく脆いものに触れることがなかろうと覚悟していた指先をそっと胸に抱いて、彼女は声を殺して泣いていた。きっとあの涙は、男が凍らせてしまったあらゆるものを溶かす、雪解けの呼び水となるだろう。
そう直感すればこそ、彼は踏み込まないことを選ぶしかなかった。せめてはどうか、その涙が男の眠りを掻き乱すのではなく、やわらに包む帳であるように祈って。
Fin.