朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 あまりに懐かしい香りに誘われて、浮上しかけた意識がゆるゆると沈んでいくのをどこか他人事のように感じていた。
 安息香に菊花を混ぜて焚くのが、あの娘は好きだった。春は梅花、夏は荷葉。秋は菊花で、冬は落葉。捻ったことはあまりしないくせになぜか侍従を焚くことだけはなくて、ほんの時折り、沈香を混ぜていた。常は衣だろうが髪だろうがほんの幽かに燻らせる程度なのに、眠る頃合いになると少しきつめに焚いて、残り香の中でまどろむことを好む娘だった。
 だから、知盛は安息香の気配を嗅ぎ取ると、つい眠気を誘われることが多い。安眠のためにと広く焚かれる沈香よりもよほど、安息香の方が知盛にとっては効果があるのだ。
 だが、落ちると自覚してしまえば覚醒することもそう難しいことではない。薄い皮膚越しに感じる光とかけられているのだろう衣越しに感じる空気の温度に、恐らくは塗り籠めの中で火桶を焚き、燭が灯されているのだろうと知る。そして、重い瞼を薄っすらと持ち上げてみれば、予想通りの光景と、予想と違う人影と。


「お加減はいかがか?」
「……いささか、驚いた」
「なれば重畳」
 問いかけの答としてはずれていたが、その一言だけで人影の主である泰衡は、知盛の状態を軽口も叩けるほどに回復した、とでも判断したらしい。変わらぬ淡白さで小さく頷き、手元に椀を手繰り寄せる。
「己が何をしでかしたのか、覚えておいでか?」
 しでかした、などと言われるようなことは何をしたつもりもない。すっかり眠気を払われてしまってきょとと瞬いた深紫の双眸をまっすぐに見つめ返し、泰衡は眉間に刻んでいた皺をいっそう深いものへと変じさせる。
「兵が、貴方を軍神と崇めてやまぬ。まったく、一体どこまで、どれほどの実力を隠しておられれば気がすむのだ」
「もう、隠しているものなど、何もないが?」
「これまでは隠しておられた、と」
 投げかけられた言葉の背景はよくわからずとも、字面に対してかろうじて答えを返せば、すかさず捻りのない嫌味が突きつけられる。しかし、それは恐らく解釈が間違っているので、訂正しておくことにする。
「隠していた、のではなく……。囚われて、いたのだろうな」
 ゆえに人は、それをしがらみと呼ぶのだろうが。


 己の身は、己だけのものではなかった。一門のための将であり兵であり、駒であった。それが逃れようのない現実で、投げ出すわけにはいかない名で、捨て去ることのできない責務だった。すべてすべて、まだ記憶の中であまりにも生々しい、しかし確かに過去の話だ。
 だから知盛は自由だった。自由になった。すべてのしがらみから解き放たれたわけではない。きっとこの先もずっと、今際の時であろうとも、死した後であっても、ずっとずっと知盛は平家の名から逃れられはしない。
 捨てることはできないから、隠して生きていくのだろう。隠したまま死ぬことになるのだろうか。あるいは、明かした上で死に様を見定めねばならなくなるだろうか。未来のことは、まだわからない。
 けれどあの時、知盛は一門のための駒である必要がなかった。一門のための兵である必要も、将である必要もなかった。
 生きるも死ぬも、己の腕ひとつ、運ひとつ、思いひとつであった。その虚像が必要だからと無理に生き延びる必要はなく、その名の持つ重みゆえにと体裁を繕う必要もなかった。経緯もきっかけも、もう関係はなかった。ただ一人の男として、己の願いのためだけに生き延びることを選び、願いを叶えるためだけに戦うことが許された。それは、たとえ一時的なものだとしても、紛れもなくすべてから解き放たれたという事実だった。
 不自然に首を傾けていることが億劫になり、知盛は大きく息を吐き出しながら目線を天井に投げ、瞼を下ろす。


「だが、勘違いだったようだ」
 謀られているのかと思いつつ、誘いである可能性を捨てきれなかった。辿りつける確信ももちろんなかったが、それでもとがむしゃらに刃を振るい、けれど夢の中でも夢が醒めても、あの娘はいない。
 きっと、これが結末だ。末期の夢としては、この上ない。そして泰衡の言が本当なら、どうやら己はしがらみを振り払ってなお、その礎を穢すような真似はせずにすんだらしい。ならばこれ以上、何を望もうか。


 幻影は幻影のまま、輝かしいままに伝承としてしまえばいい。簡単なことだ。穢すような未来が訪れる前に、二度と幻影が衆目に触れねばいいだけの話。帰るつもりがなかったところを無理矢理に帰り、けれど還る先がないのなら、この身は虚ろに沈むのだろう。呼吸を繰り返すごとに肺腑に満ちる残り香に今度こそ正しく誘われ、ゆるゆると意識が崩れ落ちるのを自覚しながら知盛は細く嘆息する。
「どうやら、」
 しばしの逡巡の気配が、おぼろながらも確かに伝わってきた。不器用ではあるが、泰衡の心根がまっすぐで繊細で優しいことを、知盛は知っている。他人の心の機微に疎いわけではない。むしろ、敏すぎることが裏目に出てしまい、不器用なのだ。いたずらに掻き乱してしまったかと、思いはするが言い繕うだけの気力も体力も残されていない。
「随分と、お疲れのようだ。今しばし、ゆるりと休まれた方がよろしいだろう」
 言われずとも眠りの底に落ちるところだった意識が、低い呪言によってさらなる深みまで一気に沈められるのを知る。都合のいい夢も見られなければ悪夢に苛まされることもない、不器用だけれども確かな気遣いの奥底へと。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。