朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 背を押された気がした。包まれたと感じた。それは気が狂いそうになるほどの絶望であり怒りであり自己嫌悪であり、だからこそ裏切れない思慕であり慈愛であった。
 ひやりとした感触が、熱をもった傷口に心地よい。撫ぜるようにそっとその感触が滑れば、かき消されるように、覆い隠されるように、傷が吸い取られていくのがわかる。
 あってはならない奇蹟だ。そして自分達は徒人にすぎない。決して龍神の加護持つ神子でもなければ八葉でもなく、ゆえに奇蹟の行使には相応の代償を必要とする。死した魂が怨霊としてこの世に立ち帰るに際し、あの深い深い漆黒を抱えるように。
 好機とばかりに四方から襲いかかってきた刃のすべてを、一太刀で薙ぎ払った。地につけていた膝をのばし、俯けていた顔を持ち上げ。何を殺すことなく、隠すことなくぐるりと見回せば敵兵の足が止まる。


 義理は果たした。対価は払った。これ以上はいらないだろう。
 将臣にはもう自分の守りなど必要ない。欠けた地の白虎の穴は銀が埋めれば事足りる。別当殿は追いついて、総領殿は己が道を知っている。この窮地を満身創痍のままで切り抜けるのは不可能というもの。そして自分からお前の声を奪ったあの連中のために、これ以上の助力などしてやるつもりは微塵もない。
 ここで己の首級を挙げられたところで、南に延びた一門への累は何もない。むしろ、名の知れた将を平泉で討ったという事実によって、少なくとも鎌倉による余計な詮索網を緩める未来をこそ引き出せるはずだ。
 邪神を滅するためにと求められた時間は稼げたし、遠のきかけた意識の向こうで、眩いほどの漆黒の力の降臨は感じていた。ヒトならぬモノは、片付いただろう。なれば後は鎌倉と平泉の純粋な戦。
 こうして自分さえもが追い詰められたように兵の経験の違いは否めないが、龍神の神子が平泉についたという事実はそれでも、士気を大きく底上げしている。この一角での敗戦は免れられない。けれど、最後の勝利は対局を制したものの手に。
 両軍の経験の差を埋めるに足る程度には、将臣や九郎、銀といった将の力量で平泉が勝っている。知盛はそれを信じている。きっと彼らは勝つだろう。それに、鎌倉を守護していたあのヒトならざる力さえ去ってしまえば、その事実を泰衡が最大限に利用する。
 なのに、お前はまだ立てと言うのか。
 神子一行に力を貸す気などない。平泉に果たす義理はもうすんだ。その上でなおこの場で自分が折れぬ刃である理由はない。ただひとつ、お前を守るという願いを除いて。


「――いい、ぜ」
 誘っているのか、謀っているのか。それをこの場で知る術はない。確信を持てない可能性を捨てる可愛げもないのに、可能性のある未来を捨てる潔さなどあるはずもない。諦めるにはもう遅い。足掻く理由を見つけてしまったのだ。
 浮かぶ笑みに、漏れる気迫に、一定の距離を挟んで四方を囲む兵達が浮足立つ。しかしもはや、すべてがどうでもいい。この戦乱の帰結を左右しうるのは自分ではないと、初めからわかっていた。担うとすれば、左右しうる可能性の粋を握る平泉総領殿の要請に応えるという一端のみ。その領分が果てた今、自分の戦果がいったいどれほどの影響を戦局に齎すかなど、考える必要もない。どうせ、もう無理だと一度は捨てたのだから。


 それは、これまでに立ったどの戦場でも感じたことのない、実に馬鹿馬鹿しいほどの潔さであり気楽さだった。
 振るう刃の切っ先には、いつでも願いがあった。祈りと、意地と、矜持と、そして何より責務があった。果たさねばならないこと、まっとうせねばならないこと。いつも、いつでも、何もかもの礎はしがらみだった。そういうものだと割り切っていたし、そういうものだとわかっていた。
 だから、己の願いと祈りのみで刃を振るうと、そう決めたのは実は初めてなのだ。
「いいぜ、まだ、折れずにいてやろう」
 謡いあげる声は殺伐とした戦場に不釣り合いなほど穏やかで、優しくて、取り囲む敵兵を圧倒してその身動きと意識を根こそぎ奪うばかりの殺気を幻想だと勘違いしそうなほどに、あたたかい。
 返り血と己の血に濡れそぼった不快感さえ気にならない。傷を強引に癒され、けれど全身の神経にわだかまり続ける疲労感さえまるで士気のよう。何もかもを振り切って知る身軽さで、白銀の舞台を縦横に舞う。これまでに抱いたことのない気魄を、惜しむことなく切っ先に満たしながら。
 この戦役のためではない。平泉のためではない。将臣のためではない。神子のためでも、九郎義経のためでもない。人のためでないのなら、まして、神のためであるはずなどない。
 ただ、自分は勝とう、この戦場で。お前の許に帰るために。
 帰る先であるお前を、この先も、この手で守るために。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。