夢追い人の見る夢は
どこか軽やかな声音ではあったが、恐ろしいほどの存在感だった。そして、知盛はそんな一種異様な空気など微塵も意に介さず、胸の底から湧く思いに任せて喉を鳴らす。これだから、伸び盛りの子供はたまらないのだ。
「御身の負けだな、総領殿」
くつくつと笑いながら視線を泰衡から望美、銀と流して、知盛は唇を弓なりに吊り上げる。
「大黒天は、破壊神だ。その無慈悲な力をもって、しかし衆生を救う。なまなかな対価では、願いを聞き入れてはくださらん」
実は、つい先ほどまでの知盛は、泰衡と今生の別れを告げるつもりで時を共にしていたのだ。たとえ望美が何に気づいて、銀にかけられた呪詛を万が一にも祓えたとして、けれど泰衡を救うには至らないだろうと予感していた。
泰衡を救うのはすなわち、別の贄を用立てることに他ならない。異国の神に対抗するため、泰衡は同じく異国の神を呼ぶことを選んだ。その舞台は調ったが、呼び、降ろすにはあまりに大きな対価が必要となる。
「神子殿は、命を捨てるおつもりか?」
「見くびらないで」
厄介になっている自覚はあれど、知盛はその対価に、己が知る神を降ろすに最もふさわしい娘を差し出すことはできなかったし、泰衡が、知盛や銀を代わりの贄として立てることを厭うのはわかっていた。ゆえ、ならばせめて、きっと誰も知らずに終わってしまうのだろう彼の尊い、あまりに優しすぎる自己犠牲の真実を記憶する役を負おうと思ったのだ。だというのに、無知なばかりだった小娘は、神の愛し子にふさわしい深い覚悟を湛えて、彼らのもとに辿り着いた。
「私には、差し出せる力がある。泰衡さんは躊躇ってくれたけど、私は、覚悟ができたの」
言って望美は首にかけていた紐を手繰り、胸元から乳白色に光る力の塊を取り出した。
「許してくれるって、白龍が言ってくれた」
誇示するように泰衡と知盛の面前にそれをつきだし、けれど望美はすぐさま、愛しむように胸元にそっと抱き込む。
「私が心の底から願うなら。私がそれで、決めた道を往けるなら。それなら、何を思うこともないって、言ってくれたの」
見せつけられたそれの正体をはきと語られたわけではない。けれど、知盛も、泰衡も、そしておそらく銀も。望美が何を手にしているのかを知ることは、できた。ああ、なるほど。それは確かに、対価としては十分だろう。神の存在をもって、神に対峙する。それは、人の身としては在りうべからず、神に吹っかける対等な取引。
「私は神子。あなた達と違って、完全に人間の側じゃなくて、人間と、神様の狭間の存在。神との戦いに関わるのは、必然で、宿命」
だから、これは申し出ではなくて、決定事項。私の力を使いなさい、藤原泰衡。
傲然と言い切り、望美は真正面から泰衡を見据える。
「私はあなたに、勝利を対価として差し出すわ。あなたは私に、そのための手立てを、対価として差し出して」
せっかく与えられた勝利の預言を断る愚者など、そして、その場にいるわけもない。
長く戦い続けるというのは、互いを理解するという側面を持つ。敵も、味方も。
だから、鎌倉側は平泉を過剰に警戒していたし、平泉側は鎌倉をある程度見くびっていた。
鎌倉殿の名代として、此度の戦線に総大将として立つのは梶原景時。
奥州藤原氏の総代として立つのは、藤原泰衡。
景時は、九郎や弁慶の戦い方を知っている。敵として戦い続けていたのだから、当然、将臣や知盛の立ちまわり方の癖も知っている。しかし、泰衡のやり口はわからない。そして、逆もしかり。九郎らは景時の癖をよくよく見知っており、けれどそれ以外の将の立ちまわり方はあまり知らなかった。
幾通りもの可能性を考慮して、けれど、知った仲だという油断があったのは事実。そういう油断をしてくるだろうと、冷徹に衝いてきたのも、事実。
つまりはあまりにくだらない、腹の探り合いであり化かし合いなのだ。
各部隊の立ち居振る舞いは、おおむね各部隊の将に一任されている。その指揮の側に立つのが平泉に根差すものではないという不満は、既に昨日の一戦で払拭されている。
誰だって、生きて帰りたい。死にたくなどあるはずもない。ならば、この将についていけば生きて帰れる可能性が高いのだと、思わせてしまえばそれがすべてなのだ。
そして、そんな将達に泰衡から下されているのはただひとつの厳命。太陽が南天にかかるまで、何が何でも大社を守り抜くこと。多少なり戦線が崩れたとしても、決して、決して大社を陥落させないこと。それさえ叶えば、勝利を得ることができるのだと。
兵の数でただでさえ平泉を圧倒する鎌倉勢は強敵だ。しかも、彼らは平家を打ち破ったという自信に裏打たれて、おそらくは実力以上のものを発揮する素地に恵まれている。対して、平泉の兵は調練を施されたとはいえ、実戦経験に乏しい烏合の衆。
明白な実力差を補うのは、背後に控える泰衡が宣言した勝利への道筋と、それこそ源平の諍いを最前線で戦い抜いてきた両家の将の経験と采配のみ。兵力の差と実戦経験の差に平泉を侮ってかかってきた昨日の一戦と違い、その補完要素を肌でもって感じ取った後の今日の一戦は、比べ物にならないほど厳しい。
しかし、負けるわけにはいかない。それは鎌倉勢も同じであろうが、平泉の兵も必死だった。そして、それぞれが平泉に対して小さからぬ後ろめたさと恩義を抱いている、彼らを率いる流れ者の将達の必死さも。
それでも。それでもやはり、兵力の差は残酷だった。少なくとも、知盛が指揮を任された一角においては、あまりにも残酷でしかなく、終焉は目の前。兵達はもはやろくに残っていない。
太陽が南天にかかるまで。それは、泰衡から直々にすべての兵に告げられた約束だった。
だからこそ、兵達は実力以上の動きをみせた。
だからこそ、太陽が南天にかかろうかという頃から兵達の気がそぞろになり、戦線はあっという間に崩れ始めた。
それは己の実力不足だと、知盛は隠すことなく舌打ちをこぼしながら縦横無尽に双太刀を振るう。目の前に餌を吊り下げて暗示をかけるのは、指揮を執る上での常套手段。その勢いをいかに殺さず、いかに長く保つことができるかの手腕こそが問われるというのに。
手は尽くした。それは過信ではなく、事実として。知盛は己の知りうる手を尽くしたし、士気を下げることのないよう、自ら最前線に立って血に濡れ続けた。大将が戦うのに己らが手を抜けるかと、そう、兵達に思わせ続けた。けれどやはり、兵力の差は、あまりに絶望的。
一度崩れ始めれば、もう取り戻しようもない。いつかの生田の夜を思い起こしながら、知盛は全身が傷にまみれ、四肢から力が徐々に削がれていくのを冷静に俯瞰している。
ただ、求められた役回りは果たせたと、確かな安堵に沈む。心残りはあったけれど、本来ならば西の海で散るはずだった命。それをこそ覚悟していたのだ。こうして長らえたことでの未練だろうと思ってしまえば、振り払えないではない。
それに今度こそ、心残りは安心して任せて逝けると確信してしまったのだから。もしかしたらこの心残りは単なる思い過ごしで、すべてが闇に塗り潰された向こうで、思いがけず邂逅するかもしれないと諦めてしまっているのだから。
そうして知盛は、確かに終わりを覚悟したのだ。
Fin.