夢追い人の見る夢は
鎌倉と平泉との開戦の報せは、ヒノエの予想を裏切って、年の瀬の足音さえ聞こえないうちに齎された。
「随分と、慣れない譲歩をなされたようだが」
「目に入らぬようこそこそと動き回られるぐらいなら、わかるように配置しておく方がまだマシだ」
平泉側の総指揮を執るのは、泰衡。結局、完成の間に合わなかった大社を本陣に、鎌倉が攻め入ってくるだろう街道筋は銀の部隊と九郎らの部隊に任せることを決したのは二日前のことだ。
再三再四、出向いては手伝いを申し出ていた九郎に折れたというのが表面上の成り行きだったが、知盛は泰衡が別の一点を諦めたのだということを知っている。
「どうせなら、総大将に立てばいいものを」
「それでは、鎌倉の軍勢はともかく、女狐に負けてしまう」
裏事情など知らず、恐らく九郎はただ純粋に、奥州藤原氏の血を継ぐ者こそが総大将にふさわしいとの判断を下したのだろう。九郎を御旗印に据えることを画策していた秀衡や泰衡には申し訳ないが、知盛はしかし、泰衡が総大将として立つ今回の帰結をこそ歓迎している。個人的な感情からではなく、表裏混沌とした、鎌倉の事情ゆえに。
平泉への使者に立ったのは軍奉行たる梶原景時であり、交渉決裂と同時に攻め入る手腕はさすがに隙のないものだった。だが、今の平泉には、歴戦の将が幾人も控えている。九郎しかり、将臣しかり、ヒノエしかり。そして九郎らは、これまで手伝いを申し出てもすげなくされていた分、公式に認められた今回こそはと、見事なまでの立ち回りをみせている。
「さて、神子殿はどうやら、お覚悟を決められたらしいぞ」
手伝いを申し出る九郎に対して、決して泰衡はつれない態度をとり続けていたわけではない。知る限りの事情を語り、目的を語り、策を語った。けれど、それがどうしても九郎に受け入れられなかっただけだ。
星明りが降り注ぐ雪原の向こうから、松明が移動してくるのが見て取れる。誰もが未完成と信じて疑わない大社の最上段からそれを冷然と眺め、知盛は小さく喉を鳴らす。
「牙も爪もない駄犬になり下がったかと思いきや、矜持ばかりは残していたか」
深く積もった雪の中を、先導するのは白銀の従僕。ぼんやりと霞むばかりで、情けないことこの上なかった気配が、知盛に馴染みのある凛とした芯を取り戻していることが、遠目にもよくわかる。
「さすがの手腕と、申し上げよう」
息も絶え絶えの様子で、しかししゃんと背筋を伸ばして長い長い階段を上ってきた銀を背に、こちらは呼吸など微塵も乱していない、けれど蒼白な顔色をした望美が、悠々と出迎えた泰衡を睨み据える。
「白龍の神子は、二人といないこの世の奇蹟。触れるだけでありとあらゆる穢れを清めると聞くが、さて。魂に刻まれた呪をも払いのけるお力をお持ちとは、知らなんだ」
「……銀を、見殺しにするつもりだったの?」
「俺には、この平泉を守る義務がある」
「だからって、銀を見殺しにして良い理由になんてならない!」
「理由はある。『対価なくば、救いは得られない』のだからな」
ぎらぎらと、いっそ殺気に満ちた鋭い視線で泰衡に喰ってかかっていた望美が、切って返されたその冷徹な一言に、表情をいっそうの憤怒に染める。
「知ってるよッ!!」
「知ってるよ、そんなこと! 選ぶのは、捨てること! 私は、そう自分に言い聞かせて、捨ててはいけないものをたくさん捨てて、選んではいけない道を、ずっとずっと選んでる!!」
てっきり、そんなことはないと言い返してくるのだと、知盛は想像していた。
戦線に出て、血に濡れて、けれど清らかな神子様と崇めたてまつられる小娘一人。時折り、底知れぬほどに深い瞳をみせる。けれど、総括して、望美は知盛の目からはどうしてもどこかしらに幼げな愚かしさを残す子供だった。力の行使を当たり前と思い、八葉に守られることを然るべきと思い込み、仮にも神なる存在から、いびつに歪みながらも確かな愛を一身に注がれる、この世に二人と存在しない稀なる子供。
少なくとも、平泉に辿り着いてから、泰衡にすげなくされることはあっても秀衡からは下にも置かぬ扱いを受けていた。兵からは信仰に近いまなざしを注がれ、銀は位高き姫君にするようにかしずく。八葉は神子のためにと忙しく動き回り、力を失った神の寵愛は、いっそう篤くなる。勘違いをしてもいたしかたなく、むしろ、勘違いをしていない可能性など、微塵も想定していなかった。
「そうよ、気づいていて、でも知らないふりをしていた。けど、あんなにあからさまに見せつけられて、それでも無視できるほど、さすがに私だって馬鹿じゃないの!」
呼吸の合間に唇をぐっと噛み締め、眉間に深く皺を刻んで、泣きたいのを必死に堪えながら、望美は揺れる声で言い募る。
「――もう、理不尽な犠牲なんて、出させない」
人の世の、人としてのしがらみ以上の犠牲なんか、許さない。
言い切って胸を張る望美の背後で、銀がそっと双眸を細める。彼女の覚悟の、ひとつ目の証左が。
じきに、日が昇るだろう。世界を満たす気配がわずかずつざわめくのを耳ではなく感覚で聴きとりながら、知盛は小さく嗤った。けれど、お前は気づいていない。そうして望めることそのものが、何よりの僥倖なのだと。
「あなたのことだって、犠牲になんかさせない」
「何をもって、そのようなことを申されるのだか」
「銀から全部聞いたよ。政子様のことも、この大社の本当の意味も」
しらじらしく言い切った泰衡の人を喰ったような笑みが、続く望美の言葉に、確かに歪む。
「私が寄坐になる。だから、私に大黒天を呼びなさい」
じっと、知盛はすべてを脳裏に刻む。愚かで盲目だった小娘が、確かに神の寵愛を受けるにふさわしい器だったことを認められるようになる瞬間を。
「あなたより、私がふさわしい。知っているでしょう? 龍神の神子は、代々龍神の寄坐として、その役目をまっとうしてきたの」
「……己を愛でる神を降ろすのと、わけが違う」
覚悟を試したかったのか、さすがに良心が痛んだのか、それとも単純に望美の言い分を信じきれなかったのか。潜めた声で言い返した泰衡に、望美はいっそ艶然と微笑んでみせる。
「『対価がなければ、救いは得られない』んでしょう?」
神に対して捧げる対価は、徒人では事足りない。神子でこそ、事足りるの。
Fin.