朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 やがて、どれほどの時間が流れたのだろう。恐らくはさほどの時間でもなかったのだろうが、不意に知盛が殺気を霧散させて小さく首を振る。
「有川、離せ」
 ぽつりと、呟かれる声はいつも通り。抑揚も薄く、内心など微塵も悟らせない、けだるげなそれ。
「けど、」
「何もしない」
 雰囲気ががらりと変わったとはいえ、先ほどまでの遣り取りやら様子やらを見ていれば、戸惑うのは当然。やや力を緩めはしたものの、敦盛と目を見かわしたきり、反応しあぐねている将臣に、知盛は振り返りもせず声だけで嗤う。
「アレを、休ませねば」
「それなら、俺が――」
「ほざけ」
 告げられた理由はもっともで、ようやく呼吸を取り返しつつある面々の中から、ちょうどを抱えている九郎が名乗りをあげる。その口上を、けれど知盛は微塵の容赦もなく切り捨てる。
「これ以上、貴様らの手にその娘を預けておくことなど、不愉快でたまらない」
 そして、わずかの隙を見逃さず将臣と敦盛の呪縛から逃れた流れで刀を腰に戻してから、じっとりと室内の全員を見回す。
「知らなんだことを、責めるつもりはない。知っていて黙っていたことも、詰るつもりはない。決断したのは、その娘だ」
 だが、不愉快だ。そう一言吐き捨てて、知盛は意識を失っているをあまりに優しく抱きあげてから、誰の追随も許さぬ背中で部屋を後にした。


「嫌われたもんだね」
 呆然と、それまでの嵐のような騒ぎに呑まれて誰もが軽い自失状態にある室内に、そしてあまりにもあっけらかんとした忍び笑いが響く。
「けれど、これである意味、すべての条件が調ったってわけだ」
「ヒノエくん!?」
「やあ、姫君。ご機嫌麗しい、というわけにはいかなそうだね」
 吹き飛ばされなかった御簾の向こうから、姿を現したのは夏の終わりに別れを告げた熊野別当。瞳に苦い微笑を刷き、切なげに、知盛が去った方をちらと見やる。
「やっと追いついたよ。知盛とはちょうど、門前で出くわしてね。これでお役御免だって言われたばかりだったんだけど」
 思った以上に、派手な退き方だったね。言っていたずらげに肩をすくめ、ヒノエは表情を引き締める。
「話はあらかた聞いてるよ。そして、もう時間がない」
「……戦が、はじまるんだね?」
「鎌倉から使者が発った。それを追うようにして、軍が動き出した。交渉で終わらせるつもりはないんだろうよ」
「思ったより、早かったですね」
「呪詛の効果が消えないうちに、一気に叩き潰すつもりなんじゃねぇの?」
 望美の言葉に頷いたヒノエの提供した情報を、弁慶と将臣が補足する。
「この調子だと、開戦は年の瀬か、年明けか」
 具体的な時期を言葉にしてしまえば、すっと腹の底が冷える。わかっていた。見えていた。けれど、改めて実感すると、やはり気が重い。
「それまでに、少なくともすべての呪詛を取り払わないとなりませんね」
 溜め息交じりに呟いた弁慶の言葉は、気が重くてしょうがない不可避の未来からわずかに焦点をずらすことに確かに一役買ってくれた。ただ一人、殴り飛ばされたその位置で姿勢を正し、底知れぬ無表情でじっと床板を睨んでいる銀を除いては。


 望美の負った穢れをが祓った件を機に、知盛は完全に九郎らから一線を引くようになった。状況がよくわからない以上、へたに移動させるわけにはいかないからと、は高館の一室に寝かしつけられている。世話を焼く際、いかんともしがたい理由で女手が必要とのことで朔が申し出た手伝いは受け入れているようだが、それ以外の面々とは決して接点を持たないようにとの態度を徹底している。
 責めるつもりはなく、詰るつもりもない。けれど、感情ばかりは割り切れない。それが、例外的に接触を許容されているもう一人であるところの将臣経由で伝えられた理由であったが、それこそ、望美達には知盛を責める権利も、詰る権利もない。
 あの日、知盛と白龍との問答に、何も思うところがなかったかと言えば、そういうわけではない。望美は、白龍が恐ろしかった。
 純真に、まるで何も知らない幼子のように己を「神子、神子」と慕ってくれる姿にずっと絆されていた。太乙だと、花がほころぶように笑ってくれることは、心地良かった。ときどき常識や言葉が通じないことがあり、そういう際には白龍がヒトではないことを意識していたが、それだけだった。
 盲目的な信奉の帰結は、申し訳ないながらも九郎と鎌倉との関係性に学んだつもりだったが、まさか、かくも身近に存在していようとは。
 あの後、望美は白龍に言って聞かせるつもりだった。誰かの犠牲を是として、己を特別扱いなどしないでほしい。それは違う。それは、苦しいだけだと。
 けれど、その願いは叶わなかった。先んじて、弁慶に釘を刺されたのだ。
 白龍の行動は、たとえば軍において雑兵が総大将を守るために身を犠牲にするようなものであり、それを指示する軍師にも似たるものだと。そして、悲しいかな、望美はそれを理解していた。痛いほどに、身をもって知っていた。九郎も、将臣も。そしてもちろん、きっと、知盛も。


 ぎこちなさの向こうに諦めと、隠しようのない苦みを隠して、望美はそれを振り払うように平泉を縦横無尽に駆けた。駆けて、駆け巡って、呪詛を祓い、怨霊を封じ、龍脈へとあるべき力を還していく。たしかに、身を苛んで仕方のなかったあの空気の重さは、駆け巡れば駆け巡るほどに軽減されていった。なのに、どうしても拭いきれないしこりがある。
 それはきっと、わかりあえないこと、自責の念に由来しているのだろうと、望美は唇を噛む。望まれた願いを、果たせないことにあるのだろうと焦る。
 泰衡とは、いまだにわかりあえない。目指す先は同じはずなのに、九郎がどれほど説得しようとも、頑なな態度が崩れない。そしていまだ、知盛は望美らと向き合ってくれない。将臣や敦盛、朔、ヒノエとは言葉を交わすらしいのだが、望美や九郎、弁慶、白龍のことは徹底的に避けて歩く。銀の身に降りかかったろう不可思議は、端緒も見えはしない。
 なのに、気づかなかった。あるいは、だから気づかなかったのかもしれない。そんな望美を見て、銀がかつてはなかったほどにわかりやすく、その白皙の美貌に苦悶の表情を浮かべていることを。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。