夢追い人の見る夢は
促されるまま視界を閉ざし、何を特別なことをされるわけでもなく、ほっそりとした指先に剣を握り続けることですっかり皮膚が硬くなってしまった己の指先を掬われただけ。掬われただけだというのに、体の中身をそっくり洗い流されたような錯覚に襲われ、あまりの驚きに望美は大きく目を見開いていた。
何度となく、時空を超えることで、ありとあらゆる可能性を踏破してきた。けれど、この時空は初めてだ。壇ノ浦で撤退することになったのも、平知盛が生き延びていることも、奥州平泉を頼ることになるのも。無論、泰衡や銀、に遭遇するのも。
そして、これほどの穢れに冒されて身動きができなくなることも。その穢れを一度に取り払うほどの力に、遭遇することも。
彼女はきっと、銀のことが心配なのだろうと思う。だから、こんなにも無謀な依頼を引き受けた。それは、確信だった。
だって、誰の目にもあからさまに過ぎる。銀は知盛にあまりにも見目が似過ぎていて、将臣や敦盛の態度もぎこちなく、なのに銀だけが何も感じていない。そこに、人の理から外れた力の影響を思うのは、当然のこと。そう思ってちらと銀を見やった瞬間、だってはあからさまにほっとした表情を浮かべたではないか。
力なく、添えられているに等しかった細い指先からさらに力が抜け、床へと落ちる。それと同時に上体がぐらりと傾いで背中に倒れ込み、慌てたように九郎が受け止めるのと、廊下を駆ける鋭い足音が響くのもまた、同時。
激しく御簾が跳ねのけられ、雪に反射する陽光を背に肩を上下させているのは、月夜に見る雪のような銀髪の青年。乱暴な扱いに耐えかねてあらぬ方向に落ちた御簾になど見向きもせず、その背から追いついてくる足音にも、室内の面々の視線にも微塵の注意を払わず、凝視しているのは九郎の腕の中で白く細く、喉をのけぞらせている一人の娘。
動きが、追えなかった。
鈍い音がして、気づけば望美の脇を銀が吹き飛ばされていた。それが、殺気にまみれて室内に踏み込んできたところに銀が立ちふさがり、そのままの勢いで知盛に鞘に入ったままの刀で殴り飛ばされた結果だということには、思い至らない。真っ先に我に返ったらしい将臣が必死に「やめろ!」と叫んで敦盛と二人がかりで羽交い絞めにしているが、知盛はそれこそ、望美がみたこともないような深い殺意を湛えて、望美を睨んでいる。
「いっそ、お前を呪ってやろうか」
いや、正確には、知盛は白龍を睨めつけているのだ。
「神を縛す呪も、穢す呪も、弑する呪も。知らぬではないぞ」
それこそ声だけで呪われてしまいそうな、殺されてしまいそうな、呼吸さえも憚られるほどの、昏い声。さすがに敦盛の秘めたる力には敵わないのか、羽交い絞めにされた位置からは一歩も動いていないのに、気づけば背中が逃げている。腰が抜けて、身動きが取れない。
「どうして、怒っているの?」
だというのに、投げ返されたのは、怯えをみせながらも純然たる疑念に濡れた、あどけない声。
「知盛は、知っていたはずだよ。胡蝶は、撫で物にして形代。生きた、ヒトガタ」
撫で物は、穢れを祓うのに使う。あなただって、穢れも、傷も、移していたではないの。私の神子のことだって、癒せるでしょう。
「神子は、尊い存在だ。私の太乙。胡蝶も、望んで身を捧げた」
語るほどに白龍の声は確信を深め、怯えを払拭し、透明度を増していく。その言葉が重ねられるほどに顔色を悪くしていく九郎や将臣、表情を削ぎ落としていく弁慶をよそに、知盛は唸るように声を絞り出す。ひどく乾いて、いっそ神々しいまでの、託宣にも等しい言葉を。
「ヒトの世に、身を浸し過ぎたか」
――愚かで憐れなカミモドキよ。
「……私は、もう“全”ではないもの」
ひくりと肩を揺らしたものの、白龍はいっそ自嘲的な声で、冷やかに切り返す。
「陰陽の均衡が崩れた時、私は消えることを定められた」
新たに生じる龍にすべてを譲り、私は消える。一度別たれてしまったものは、もう、元には戻せない。こぼれた水は戻らない。過ぎた時は、遡れない。
「だから、私は私のすべてをもって、私の神子を愛すよ。神子を守って、神子の力になる」
「贄を、使ってでも?」
「カミとは、そういう存在でしょう?」
幼子の風貌に幼子らしからぬ笑みを浮かべ、白龍はそっと指を伸ばす。
「対価なく、救いは得られないよ」
けれど、指先はに触れる前にまばゆい光に弾かれる。じとりと睨みつける知盛が何がしかの術を行使したのだろうことはわかるが、そのすべてについていけるものはいない。
Fin.