朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 それこそ真意など微塵も滲ませない無色透明の無表情を浮かべて、いつの間にか銀の背後に立っていたのは、知盛だった。慌てて左に二歩ほど後ずさった銀とは対照的に、は膝を折ることさえ忘れて立ちつくす。突き刺さる深紫の視線は、底知れぬ苛立ちに燻ぶっている。
「軍師殿、御曹司殿らも戻られた。お前はもう泰衡殿の元へ戻れ」
 淡々と、視線はに据えたまま、述べられたのは逆らうことを許さない命令。
「どうした? お前は、今日の結果を泰衡殿に報告する必要があろう?」
 息を呑み、とっさの返答に窮した銀に有無を言わせず畳みかけ、知盛は怜悧な声音で「去ね」と呟く。
「お前達の会話が聞こえなかったゆえな、此度は見逃そう。だが、次はない」
「……御前、失礼いたします」
 ちらとも視線を流さないまま、しかし知盛の纏う気配はあからさまに銀を威圧していた。いったい何が知盛の琴線をここまで刺激したのかがわからないまま、はただただ、組み合わせた指を強く握りしめることしかできない。
 聞こえなかったとの言がいったいどこまで本気なのかはわからないが、銀は何を言い訳することもなく、ただおとなしく一礼を残して踵を返す。凛と伸ばされた背筋も、ごく小さな足音しか立たない後姿も、すべてが懐かしく、嘆かわしい。失われてしまったすべてを取り戻したいとは言わない。けれど、すべてを失ったままにしておくこともできない。ただ、その術がわからない。
 は、穢れを引き受けることはできても、魂に刻まれた呪詛を引き受けることまではできないことを、自覚している。


 それまではまるで見向きもしなかったくせに、立ち去る後姿をじっと見送ってから、ようやく知盛はに向きなおった。
「お前、こんなところで何をしている?」
「洗い物を、片付けようと思いまして」
「なぜ?」
「溜まったままにしておいては、着るものに窮しましょう?」
「なぜお前がやる?」
「他に、人手がないようでしたので」
 下手な言い逃れだとわかりきっている問答は、しかしここまで。溜め息をひとつつき、知盛は俯き加減だったの頤を拾い上げる。
「なぜ、お前がここにいるのかと、問うているのだが」
 その双眼に見据えられてなお偽りを貫けるほど、は強くなどない。うろうろと視点がさまようのを沈黙の重みのみで威圧する相手に、根負けするのはすぐのこと。
「人手がないと聞きました」
「事情を知らぬものを置けぬなら、事情を知る自分ならよかろうと?」
「龍神の神子様に、龍神様、八葉の皆様だけでは、日々暮らすだけでも不自由がありましょう。なんぞ、お手伝いをと」
「……神子の、神の傍にあることは、お前にとって危ういことだ」
 溜め息交じりに手を離され、はしゅんと、顔を俯ける。
「アレらは、我ら徒人にはありうべからず強大な力の塊。器としての能に秀でているお前にとって、苦痛にしかなるまい」
「触れなければ、何事も。傍らにあるだけでは、流れません」
「触れれば、呑まれるということだろう?」
 言いながら、実にやわらかな仕草で知盛はの左肩をそっと包む。ようやく傷が癒え、ただ醜い傷痕ばかりは消すことの適わなかった場所を、正確に。


 言わんとしていることを汲み取れないほど、は知盛との距離があるとは思っていない。彼はただ、純粋に案じてくれているのだ。いくらの望んだこととはいえ、傷を、穢れを、病を引き受けることは苦痛に他ならない。そうしてのたうち回る姿を見せまいとして、けれど彼は見知っている。だから、案じてくれている。徒人を相手にしてさえあれほどの苦痛。ならば、桁外れの力の器である神子や神、八葉を相手取れば、どれほどのものであるのかと。
 そうなる可能性のある場に踏み込むことの危険性が、どれほどのものであるのかと。
「やめておけ。お前は情に篤い。神子殿らの傍らにあれば、遠からず流されよう」
 洗い物のため、髪を背中でゆるく括っておいた組み紐をさらりとほどき、知盛はごくごく抑えた声音で囁くようにして言葉を降らせる。
「平泉への恩義は、俺が返す。お前が気にすることではない」
 俯いた視線は持ち上げられないまま。ゆえ、ほどかれた髪はの表情を隠すように、顔の左右にさらりと落ちてきた。かつてならば考えられなかったほどに、傷み、艶の褪せた髪。それもこれも、が決めて貫いたことゆえの結実。だからに後悔はない。ひとつ心にしこりが残るのは、知盛の表情が曇ってしまうことだけ。
 消せない傷痕も、荒れた肌も、褪せた髪の艶も。すべてはの我がままの結実なのに、知盛の表情が曇ってしまうことだけが、計算違いにして覆らない現実。その現実を予見してなお忠告を無視しようと思うのも、覆しようのないの真実なのだけど。


 洗い物をする際には、乾くまでの時間から逆算して量を決めることにしている。よって今日のが手掛けたのは先ほど銀が干してくれた一枚だけであり、手持無沙汰を理由に館へと戻ることにする。いつまでの付き合いになるかはわからないが、しばらくは高館で寝食を共にするのだ。せめて、自己紹介ぐらいはせねばなるまい。
 知盛はずっと渋い表情を崩さないままだったが、結局あからさまな反論を口にしようとはしなかった。そも、出先から戻ったその足で、誰に言われたわけでもないのに邸の裏手までわざわざやってくるあたりからして、知盛はに甘い。
 時に立場の違いを利用して何がしかを命じられることはあっても、はそれを理不尽に思ったことはなかった。すべてすべて、振り返ればのために述べられたと確信できることばかり。理由など知らない。当人もわからないと言っていた。けれどこれが、結論なのだ。


 黙って先導する背中について歩けば、やがて辿り着いたのは八葉が集う広間だった。唐突に降って湧いた気配に疑惑の視線と、それから複雑な、物言いたげないくつかの視線が突き刺さる。
 そのまま室内に踏み込み、将臣の隣に設けられた空座に腰を下ろす知盛を待って、はゆったりと裾を捌いた。
「お初にお目にかかります」
 膝をつき、三つ指をつき、深く額づいて紡ぎ上げるは初対面の挨拶を。
「藤原泰衡殿のお邸でお世話になっております、胡蝶と申します。本日より、こちらで皆様の身の回りのお世話をさせていただきますので、なにとぞお見知りおきくださいますよう」
 物言いたげな表情はすべて黙殺し、は誰にも見えていないと知りつつ、床板を見やりながら嫣然と笑んだ。彼女の戦場においては、それこそが必要不可欠な武器であるのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。