夢追い人の見る夢は
そのまま部屋を引き払い、は朔から聞いて洗いものを片づけることから仕事を再開させた。下働きのものを置かないからには当然の帰結なのだろうが、手に余らせるならば助けを求めればいいのにとも思う。それができないからこそ、この高館に招かれた御曹司殿は、御館やあのわかりにくい総領殿に慈しまれているのだろうが。
「何用ですか?」
黙々と、皮膚をちぎりそうな冷たい水に手指を真っ赤に染めて作業を続けながら、は姿勢を変えないままに背中に向かって問いかけた。
「まず、気配を殺してわたしの後ろに立つのをおやめなさい」
わたしは、あなたに背中を許した覚えはありません。
冷やかにそう断じて、切りのいいところでは濡れたためにすっかり重くなってしまった布地を抱えて、腰を伸ばす。
「用向きがあるのなら、手短にお願いします」
「……姫は、異能をお持ちと伺いました」
「姫と、そう呼ばれるようなら、かような下働きなどいたしませんよ」
「病を、怪我を癒し、穢れさえも祓うことが適うと」
混ぜ返す言葉になど頓着せず、続けられる声音は悲壮。なるほど、恋も忠義も盲目を招くが、はて、彼の場合はいったい何が作用してのことなのか。この段階では、には判じるだけの材料が何もない。
「いったいどなかたら聞いたのかは存じませんが、その際に注釈はいただかなかったのですか? そしてこの異能は、齎せる相手が限られているのだと」
簡易に用立てられた物干しに向かい、踵を上げながら必死に腕を動かせば、背中から包み込むようにして伸ばされる腕が二本。の細腕には余るばかりだった衣が、あっという間に奪われ、思い描く通りに皺を伸ばされる。
腕が退くのを待ちわびたように、反射的に振り返ったのは致し方のない情動だった。知ってはいた。彼がこの地において、きっとかつては垣間見ることさえなかったろう下働きの内容を身につけ、生来の才能か、そつなくすべてをこなすことを。けれど、まさか洗った衣の干し方まで身につけているなど、どうして想像できるだろう。
息を呑み、信じられない思いで振り返ったは、そしてあっという間に膝を地につけて深く頭を垂れる理想的な従僕の姿を目の当たりにする。
「詳しくは何も。しかし、叉聞いてはおります。姫の異能は、姫の思いの向かう先にのみ発揮される恩寵であると」
眩暈がする。涙が滲む。胸が引き絞られる。
だから嫌だったのだ。はずっと、ずっと、銀との接点がなるべくないようにと、必死に心を砕きながら平泉での生活を重ねてきた。
ああだって、耐え切れない。は知っている。この人が優雅に微笑む姿を、御簾の向こうに垣間見ていた。兄君と戯れる姿も知っている。その人が病に伏せば、今にも泣きそうな様子で見舞いにと足繁く通う姿も知っていた。戯れのように恋歌を詠み、手すさびのように琵琶や笛を奏でるのに聞き惚れたこともある。
この人の前にひざまずくのは自分であって、この人は自分の前にひざまずくべきではない。そのことを、は知っている。身をもってわかっているのだ。
「ですが、どうぞお聞きください。清らかなる神の愛し子に心を奪われた、憐れな男の戯言と、なにとぞご慈悲を」
あの方は、平泉に必要な方です。この地に撒かれた呪詛を取り払い、あるべき姿へと戻すのに、神子様は不可欠な方なのです。そうすることが、泰衡様のなさんとしていらっしゃる目的の礎ともなるでしょう。何より、この地に住まう人民にとって、それはもたらされるべき恩寵でしょう。
紡がれる言葉は、平泉が総領の右腕と称される郎党にしては差し出がましいものであり、けれど正鵠を射たものであった。さすがに、上に立つ者としての視点は、記憶を失っても健在であるらしい。一筋のほころびもない、それは怜悧で正しすぎる決断。この平泉に生きる以上、早々に手にしなくてはならなかった、選択肢。
眩暈を堪えるためにこめかみに指を当て、は俯き加減に小さく自嘲の笑みをこぼした。
自身では決して認めようともしないが、泰衡はとても優しく、そしてに対して何かしらの負い目にも似た感情を抱いている。ゆえに彼は察しても口にしない。口にしようともしない。平泉のためにその身を供物となせなど、決して。
秀衡は知らない。かくな異能が一体どこまで噂になっているかは知らないが、彼はこうした類のことをなかなか信じようとしない。泰衡の進言も、の異能も、秀衡にとっては同じこと。彼は己の目に見えることを信じ、耳で聞けることを頼りに物事を判断する。その判断こそが、彼をここまで導いた。こうして、平泉に繁栄を齎した。
だからきっと、銀が口を挟むのだ。秀衡が信じず、泰衡が躊躇すればこそ、彼らの忠実なる従僕が口をはさむ。余計なこと、本来ならば叱責を与えられてしかるべきこと。けれどは叱責を与えられない。それこそが必要なのだと、心のどこかで憂慮しており、今日この館において、それを確信へと昇華させてしまったから。
瞬きをひとつ。それからそっと息を吸い込んで、は細く細く、決して持ち上げられない銀色の後頭部に、語りかけた。
「わたしに、何をせよと申されます」
「神子様をお救いください」
「それほどの力があるかなど、わたしにはわかりません」
「たとえお救いすることは叶わずとも、お力にはなれましょう」
合わせられない視線。揺らがない声音。単調な物言い。すべては無色透明なのに、まるで詰られているかのような錯覚に陥る。そして、そしてその先に待つのがいったいどんな未来であるか、あなたはそこまでを知っているのだろうか。
「この、平泉のために、どうか――」
「何をしている」
地面を見つめる銀と、銀を見つめると。二人だけで完成されていた世界に踏み込んできた新しい声に、二人はともに弾かれたように視線を巡らせる。
Fin.