朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 触れたという実感などわかない程度の、ほんの一瞬。しかし何らかの思索が脳髄に届くよりも早く、は幼子の傍らから必死になって身をはがしていた。それはあまりにも唐突過ぎて、己が何をしようとして、何ゆえその姿勢へと辿り着いたのかが自覚できないほどに。
「どうした?」
 さすがに武を極めたる剣士にとっては、にとってのほんのわずかな時間でさえも姿勢を整えるには十分だったのか。はたと意識を取り戻したのは、訝しげに、けれど気遣わしげにと白龍との間に入り込み、じっと目を覗きこむリズヴァーンの声が聞こえたから。
「……今の、は」
「何かあったのか?」
 それらはすべて、無意識の行動だった。薬湯を煎じようと思った。それを許容された。ゆえに枕の近くににじり寄り、顔色をうかがおうと覗きこんだ。あどけない造形が苦しそうに歪んでいるのを見て、つい、手を伸べた。
 駆け抜けたのは衝撃だった。指先から流れ込み、全身をあっという間に満たし、溢れ、無色透明なその力に呑まれて溺れる恐怖だけが残された。触れてはいけない、越えてはいけない、知ろうとなどしてはならない。
 かくもあどけない見かけをしているというのに、けれどこの子供は確かに神なのだ。ヒトならぬ存在。ヒトとは、相容れぬ存在。


 指を引き剥がせたのは奇跡にも等しかった。あとほんの一瞬でも遅ければ、きっと引きずり込まれていた。かつて、あの偉大なる皆の父が健在だった頃、忠告を受けたことがある。
 己がヒトであることを忘れてはいけない。その境界を超えかねないことなどしてはならない。けれど自分が立つのはその境界にこそ近い位置ゆえに、ヒトならぬモノには、確たる意思を持ってのみ、臨むようにと。
 問いかけに答えることのできないに業を煮やしたのか、リズヴァーンは何気ない様子で白龍の顔を覗きこみ、額にかかる白銀の髪をそっとのけてやっている。その仕草に、無理はない。が示すような拒絶はなく、の抱いたような恐怖はまるで滲んでいない。
「何も、感じないのですか?」
 ようやくの思いで絞り出した疑問の声は、掠れていた。けれど届くには届いたのだ。リズヴァーンは怪訝そうな色を浮かべた限りない無表情で振り返り、小さく顎を引く。
「私には白龍が弱っていることがわかる、それだけだ」
「弱っている、のとは違いましょう」
 現人神というのとはまた少し違うが、これが神に触れるということなのだろう。そして、これが徒人と神に連なるものとの違い。八葉は白龍の眷族だ。その身に連なる相手に害なすようなことにはならない、特別なつながりがあるのだろうと、は考える。
「穢されているのです」
 もまたそこらの人間に比べれば龍脈の乱れの影響を受けやすいのだが、守護する地が違うとはいえ、化身である白龍が受ける影響は桁違いであろう。汲みあげる力がことごとく穢されているのは、率先して毒を浴び続けるのに等しい状況。望むと望まざるとにかかわらず、これは平泉に呪詛が埋められ、彼らが平泉に足を踏み入れてから、遠からず到達するはずだった境地なのだ。


 もっとも、すべてはの直観にすぎず、説明することもできなければ証拠を示すこともできない。しかし同時に、そうする義理まではあるまいとも思う。ゆえに、触れずにいれば大丈夫だろうと考えなおし、何もできないせめてもの代わりに、やはり薬湯ぐらいは煎じようと持参した薬箱に手を伸ばした。
「冷めても飲みやすいよう、用立てますので」
「……なぜ、白龍が穢れを負っていると思ったのだ?」
 平静を装うことになど慣れている。薬草を選り抜いていく指先を見つめられていることには気づいていたが、あえて黙殺していたというのに、あまりにわかりやすいはったりなど通用しなかったらしい。低く、静かに問いかける声は荘厳。緊張と、あとは何だろうか。何がしかの衝動によって背筋を強張らせて、はそっと、意図的に呼吸を深く繰り返す。
「異能を持つものなど、さほど珍しくもありますまい?」
 そして切り返したのは、恣意的で姑息な一言。わかればいい。わからなくてもいい。けれどこれ以上は明かさない。
 この身は器。形代にして撫で物。けれど器には限界がある。今はまだ、壊れるわけにも溢れさせるわけにもいかない。ゆえに何も明かさない。明かせばきっと、求められる。望まざる形代となることを。

Fin.

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