朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 あからさまに具合の悪そうな望美と白龍の姿に、女の判断と行動は迅速かつ的確だった。早々に褥を用立て、白湯を運ぶ朔の脇に薬箱を持って膝をつく。
「血が足りていないご様子ですね。どこか、痛むところはございますか?」
「あ、いえ。本当に、なんでもないんですけど……」
「この子の不調は、怪我や病によるものとは少し違うから」
 もはや条件反射としか言いようのない否定を紡いだ望美の横から、朔がそつなく言葉を添える。双方の言い分を聞いた上で、女は心得たように顎を引いた。
「でしたら、気分が和らぐようなものを煎じましょう。お飲みいただいて、しばしお休みくださいませ」
「そうね。望美、とりあえず、今日はゆっくりしていてちょうだい」
「でも、朔」
「焦っても、どうにもならないわ」
 薬草をより分けては薬箱と共に持参していたらしい小さなすり鉢でごりごりと混ぜあわせ、黒白の龍の神子の隣で女は慣れた手つきで薬草を調合していく。
「私にも、穢れを祓う力があればよかったのだけど」
 低めた声音で悲しげに呟き、それこそ反射的に身を起こそうとした望美に朔はやんわりと微笑む。
「いいの、わかっているわ。こればかりは役目の違いだもの。でも、覚えておいて。私は、あなたのことが心配だし、あなたの力になれればいいのにと、心の底から思っているのよ」
 だから、どうにもならない今は、せめておとなしく寝ていてちょうだい。そう悪戯気に微笑んで、朔はなんとも複雑な表情で自分を見上げてくる対の神子の瞳をまっすぐに覗き込む。
「あなたは、私達の希望なのだから」
 その言葉が紡がれた瞬間、降ろされた御簾の向こうから漂った悲壮な、切実な思いの色に、室内にいる面々が気づくことはなかった。


 望美の様子は自分が看ているからと申し出た朔の願いに応えて、女は廂を抜けて今度は白龍の休んでいるという一室に足を向けた。蒲柳の質を持つくせに、医師も薬師も滅多なことでは寄せつけたがらない主を仰いでいたがゆえの特異な知識が、まさかかような形で役立つとは。
「失礼いたします。よろしいでしょうか?」
「入りなさい」
 床に膝をつき、伺いを立てれば御簾内からはすぐさま肯定が返る。音もなく身を滑らせた先、神が人の姿を取っているのだという少年が伏せる傍らには、伝承に聞く鬼が静かに佇んでいる。
「薬湯を煎じようかと思いまして」
 神なる身に人が恃みにする薬効がどれほど効くのかはわからないが、少なくとも娘には、年端もいかない少年が苦しんでいるようにしか思えない。多少なり、効果があればと願っての申し出に、表情の読めない冷めた蒼い双眸がひたと向けられる。
「白龍が苦しんでいるのは、龍脈が呪詛によって穢されているからだ。薬湯で、どうこうなるものではない」
「ご気分を和らげることだけでも、できればと思ったのですが」
 つい先ほど、くしくもここを訪れるよう願い出た少女の口から聞いたのと大意の変わらない言葉を差し向けられ、娘はわずかに首を傾げる。
「余計なことだと、そう申されるならば下がります」
 別に、無理強いをするつもりはない。そもそも、こうしてこの高館で下働きにも似た真似をしようと思い立った動機は、彼らの存在とはいささか外れた部分にあるのだ。どうせ関わらねばならないのなら、と、そう思っての申し出であるのが本音の半分。仮に手酷く拒絶されたとて、取り返しがつかないほど落ち込んだり、そういうことはありえない。


 ひたと据えられたきり、逸らされることのない視線はひどく鋭かった。警戒しているのか、探っているのか。真意の読めない双眸を見つめ返すうちに、娘ははたと、とても基本的なことを忘れていたという事実に思い至る。
「そういえば、名を名乗りもせず。失礼をいたしました」
 眼前の鬼には、しばらく前にこの館の庭で遭遇している。その際には、娘の側から正体を詮索するなと告げたのだ。二度目の出会いという認識があればこそつい省いてしまったが、名乗りもしない小娘の煎じた薬湯など、口にする気にならなくて当然だろう。
「藤原泰衡様のお邸にてお仕えしております。名を、胡蝶と申します」
「……銀は、菖蒲の君と呼んでいたが?」
「そのように呼ばれる方もおいでですが、君などとお呼びいただく必要はございませんので」
 かつて過ごした日々の中で、気づけば多くのものが娘を“菖蒲の君”と呼んでは下にも置かぬ扱いをしてくれていた。だが、それは彼女を庇護してくれた人と、その人に対して彼女が齎すことのできた異能ゆえに。それらの要素を排して対峙することしかできない今の自分に、そのような敬称は不要であるというのが娘の認識。
「薬湯は、ご入用ですか?」
「……頼もうか」
 鬼の中で、いったい何がどう変じたのかはわからない。だが、彼は確かに了承の返答を紡ぎ、娘と白龍とを隔てるようにして座り込んでいた位置から腰をずらす。その向こうで眠る横顔は蒼褪めていて、憐れを誘われてつい指を伸べたのは反射的な行動。
 ゆえに娘は気づかなかった。そうして神なる身に触れることで何が起こるかを、考えることはできなかったのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。