朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 あからさまに気配を潜めて聞き耳を立てられるのは、あまり面白いものでもない。かといって、面と向かって説明を聞かせてやる義理など微塵もない。ゆえに知盛は気づかないふりを選択する。
 別段、人払いをしているわけでもなく、互いの間には上下関係も存在しないのだから、何を命じることもできない。命じられる義理はないと思っている以上、逆もしかり。現状、暗黙の了解として互いへの距離感は保たれている。その事実には、さすがにつけいる隙が見いだせない。
「何用だ?」
 用立てられていた酒は上等。肴にと供された塩も美味。先ほどまで美酒を嗜んでいた身はほのかに酒精に満たされており、つい杯が進みそうになるが、量はあるまい。純粋に惜しみ、ことさらゆっくり味わう。
 そんな静かな酒宴の中、呼気に混ぜての問いかけに、将臣はいかにも気まずそうに視線をさまよわせた。
「銀が、説明をしたであろうに」
「……“銀”、なのか?」
 なんだ、そちらが主題なのかと。いささか拍子抜けしたような心持ちで知盛はひとつ、意識的な瞬きを挟んでから口を開いた。
「あの男は、そう名乗ったと思うが?」
「お前は本当に、アイツを“銀”だと思っているのか?」
「“銀”以外に、あの男を呼ぶ名を俺は知らん」
 名乗られていない名は、許されていない名。許されていない名は、呼ぶことのできない名。ゆえにそれは意味をなさない。
 意味をなさないこと、意味をなさないものに知盛は興味を持たない。持つまいと、戒めている。ゆえに知盛はかの戦乱においては源氏の神子に興味があり、平泉への逃避行においては弁慶に興味があり、今は白龍に興味がある。自分のなさんとしていること、進まんとしている道のりへの、小さからぬ脅威として。


 噛み合っているようですれ違うばかりのやりとりは、ともすれば上滑りするだけの独り言とも聞こえるだろう。退屈しのぎにさえならない分、児戯よりも実がないか。
「一門にあった折、お前は“有川将臣”であったか? “平重盛”であったか?」
 憐れむように、悼むように。答えの明白な問いを差し向ければ、将臣もそれ以上の追究を諦めたらしい。
「俺は、“還内府・平重盛”だ」
「なればあの男は、“奥州藤原氏が郎党・銀”なのだろうよ」
 苦々しげに吐き出された声にかぶせるように、告げる知盛の声は託宣にも等しいと将臣は感じる。何もかもを俯瞰し、睥睨し、認め諦めたその姿はひどく美しい。あの方は、根本的に孤独なのですよ、と。囁くよく似た寂しげな声が、今はとても遠い。
「まあ、いいや。その話は置いておこう」
 だが、惜しんだところで、懐かしんだところで、届かないものには届かないのだ。今は決して届かないのだと、一番近しいだろう男に宣言されたのだから、将臣はそれを信じる。
「本題に入るぜ」
 銀のことをずっと確かめたいと思っていたのも事実だ。だが、今宵の主目的はそこにはない。
「常盤御前のことは、お前の仕業だったのか?」
「ああ」
「中尊寺にいた、あのチビは?」
「仮にも義妹であられる方を、よもやお忘れか、“義兄上”?」
 からかい混じりの口調はうっすらと嗤っており、その声音こそが何より雄弁な答え。
「父親は?」
「さぁて」
 喉の奥で笑声を散らしながら、知盛はちろちろと酒を舐める。
「父上やもしれん、あるいは、違うやもしれん。いずれにせよ……さして意味のあることとは、思わん」
 将臣には、知盛の真意は読みとれなかった。もしかしたら、本当に知らないのかもしれない。知っていて隠しているのかもしれない。なんにせよ確かなことはただひとつ。
「もはや、詮無い問い、だろう?」
「……違いねぇ」
 九郎の母である常盤御前が、源義朝の死後、平家に身を寄せていたという事実は不動の過去。そのさなかに産み落とされた子供は、父の別など確かめられることもなく、ただ平家の係累と見なされる。面白おかしく政治の種となる噂話は、それらしき発端は必要としていても、確かな証拠など必要としていない。話の規模の大きさと、秘密の深さと、関わる人間関係の複雑さだけが、重要なのだ。


「いつの間に逃がしてたんだ?」
「父上が怨霊として還られてから、折を見て、と母上よりご指示があったのでな。都落ちの際、混乱に乗じていただいた」
 思わぬ黒幕の存在をあっさりと明かし、知盛は逆に問い返す。
「どこまで、何を聞いた?」
「ろくに聞けちゃいねぇよ。常盤御前とその娘を、藤原泰衡を頼って奥州に逃がした。そこに、お前の邸に仕えていた女房さんと郎党の何人かを同行させた。その女房さんの一人が“菖蒲の君”だってことだけだ」
 一息に言いきってからしみじみと溜め息を吐き出した将臣は、切なげに眉を寄せて小首をかしげる。
「全然、気づかなかった」
 独り言にも似た感想には、何を返す必要もない。まだあの娘を知盛が手元に置いていた頃、幾度か垣間見たことはあったはず。その可能性に将臣も気づいたのだろう。確かにその頃に比べれば、今の彼女は見る影もないに違いない。艶やかだった髪の色は褪せ、瑞々しく輝いていた肌は血の気を失せさせ。ぼろぼろに擦り切れた姿は、萎れた花を思い起こさせよう。
「けど、ようやくわかった。お前が言ってた平泉への用事って、あの人のことだったんだな」
 惜しむように、悼むように呟いていたくせに、まっすぐに知盛を見やる紺碧の双眼は、今にも泣きだしそうなほどの愛しさを湛えていた。まるで我がことのように喜び、安堵に満ちた慈愛の微笑み。


 将としてどれほど冷徹な側面をみせようと、この純粋さが失われない点が将臣の器の深さだと知盛は思っている。自分をはじめとした多くの者がとっくにどこかでなくしてしまった、あたたかくてやわらかな気遣い。
 ゆえに一門の皆が彼に惹かれたのだろう。疑いつつも、訝しみつつも、盲信したいと願い、そうした。彼の前には、身分も血脈もない。ただ、彼が思いをかけたいと感じるか否か、その判断だけが厳然と存在する。
「で、この先どうすんだ? 迎えに来るのが目的だったんなら、あの人連れてどっか行くのか?」
「いずれは、な」
 もう二度と、とは、つい先ほど己が心に誓った未来への約束だ。もう二度と置き去りにはするまい。次は彼女を連れていこう。その手をとって、共にいく。だが、それは今ではない。
「預け置き、面倒をかけ、それで仕舞いというわけにはいくまい」
 含みを持たせた物言いに怪訝そうな表情をする将臣に、知盛は静かに言葉を繋げる。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。