朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

「……俺には、何を返すことも、できんぞ」
 かつてのように、朝廷にて高き位を賜り、栄華を極めているわけでもない。むしろ、今の知盛は平泉にとって小さからぬ災禍でしかない。そのことのわからない泰衡でもないだろうに、手向けられる言葉には、打算の色がまるで読みとれない。
 自分を守って何になる。かの娘を守って何になる。確かに多少の力添えはできるだろう。位を失おうが財を失おうが、知盛にはこれまでに築きあげてきた経験と、知識と技術がある。それらを供するに否やはない。だが、見合わぬ対価には、その裏にある思惑をどうしても疑ってしまう。
「別に、見返りを求めてのことではない」
 だというのに、泰衡は笑う。差し向けられた猜疑にさえ、あどけなく。
「あなたという在り方に憧れる俺の、自己満足だ」
 その笑みと声とがあまりに眩しくて、知盛は静かに瞑目した。
 損なわれて二度と手にできないと思い込んでいたモノが、こんなところにも、残っている。


 そのまま他愛のない会話とささやかな取り決めを交わす酒宴が果て、高館へと戻る凛とした背中を見送った泰衡の背後に気配も薄く歩み寄り、銀は問うた。
「よろしかったのですか?」
「何がだ?」
 当然のように投げかけられた低い声に、やはり当然のように切り返し、泰衡はそれまでほどけていた眉間のしわを、深く深く刻みなおした。
「菖蒲の君にご助力いただければ、神子様も、白龍様も――」
「口を慎め、銀」
 続くはずだった言葉を鋭い語調で切り捨て、泰衡はようやく、視線を流して従僕をねめつける。
「かの姫の祈りがいずこに向くかは、姫が決めるべきこと」
 徒人の祈りであれば、それは単なる嘆きの言の葉としてむなしく地に落ちるだけかもしれない。けれど、彼女の祈りは特別だった。死ぬはずだった男の命を此岸に繋ぎとめ、生を諦めていたろう男の心をこの北の地へと向かわせた。


 その力が、どこに、どのように、どれほどの作用を齎すのかは、まだわからない。男は黙して語らなかった。あるいは、男でさえも知らないのかもしれない。いずれにせよ確かなことは、彼女の祈りが単なる夢想となるか奇跡となるかは、彼女の思いの持ちようによるということだ。それだけは、誰が何を言ったわけではないが、彼女の特異性を知るものが確信している暗黙の了解。
「俺は、この地を加護せぬ神にも、その神子にも、さして関心はない」
 加護与えぬ神が苦しもうが、それは泰衡にとって見知らぬ誰かが苦しんでいることに等しい。その神子が苦しんでいることも、しかり。憐れとは思う。だが、格別に気にかけ、手を差し伸べる必要性は感じない。
「その“力”さえいただければ、それでいい」
 神が守ってくれないというのなら、人が守るしかなかろう。ヒトの力では足りないというのなら、ヒトの手にカミの力を握るだけ。
「……これ以上、苦しめてさしあげるな」
 見知ってしまった。重ね見てしまった。ゆえに泰衡にとって、いまだ遠き神よりも神の愛し子よりも、彼女の方が労わるべき存在なのだ。彼女を犠牲にしてまで遠き神を助けるつもりは毛頭なく、その愛し子のために彼女が身を捧げるのであれば、きっと眉間のしわが深まるのだろうと自覚している。
「さしもの俺にも、そのぐらいの良心はある」
 まるで心を持たないような、人形のような従僕が何も言わないのはいつものことだ。ゆえに泰衡は独白が過ぎたことを自覚して自嘲の笑みは刻んでも、言い訳はしない。必要がないことを知っている。相手の反応を確かめることも、しない。
 けれどこの時ばかりはその習慣が仇になったのだろうと、思い知るのは後になってから。
 すべてすべて、過ぎて後より悔いるから、ヒトは後悔の念を抱かずに生きることができないのだ。


 高館に辿り着いた知盛を出迎えたのは、神妙な表情をした将臣だった。
「おかえり」
「ああ」
「メシは?」
「いらん」
「じゃあ、酒とか」
「あてがあるのか?」
 気まずさと覚悟をないまぜにした複雑な様子でのやり取りだったくせに、勢いだけかと思った誘い文句には、意外や周到な用意がされていたらしい。
「決まりだな」
 そういえば、今の将臣には喰えない軍師殿による入れ知恵が可能であったと。思い至った頃には既に、明るく笑って「持ってくるから、奥に行ってろよ!」ときびすを返された後だった。

Fin.

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