朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 枕辺の脇息から鈴を取り上げ、その場で鳴らさないよう気をつけて正面の格子を閉めてから、知盛は本殿へと足を向けた。角を折れたところで鈴を鳴らしてみれば、ちょうど渡り廊下を過ぎたところで年嵩の女房と出くわす。
 慌てず騒がず、宮中や己の邸で見かけた類とは異なるものの、すぐさま脇に下がって膝を折る所作は実に洗練されている。
「これを」
 傍近くまで足を運ばれるという慣れないことに戸惑ったのか、ますます低く沈められた後頭部に静かに声を落とせば、ちらと上げられた視線が差し伸べられた鈴を認めてさらに上向く。
「よく、寝ている。起こすのは憐れと、外に出てから使わせていただいた」
 戻しておいてくれ。言って小さく、音を鳴らさない程度に指先を揺らせば、畏まった仕草で手を伸べられる。
「傷に障ったやもしれん。しばらく、様子を見てやってはもらえまいか?」
「心得まして」
 続けざまの依頼には、即座の承諾。再び深く沈められた後頭部に「頼む」と言い置いて、知盛は夕闇の庭に紛れるようにして佇んでいる銀色の影へと視線を移す。


 呼んだわけではなく、呼ばれたわけでもない。けれど、待たれているとわかった。ゆえに、問う。
「何用か?」
「泰衡様より、ご案内を申しつかりました」
「では、頼もう」
 ならばもっと近くに、わかりやすい位置まで早々に進み出て控えているのが家臣としての務め。あんな、気配に聡いものでなければ見落としてしまうような場所から、物言いたげな空気を発することで気を引くのは、思惑あっての戯れか、もしくはある程度以上の対等な関係性があってはじめて許されるものだというのに。
 庭を横切って濡れ縁のすぐ脇まで歩み寄り、先行して歩きはじめた銀を追いかけながら、知盛は静かに溜め息を飲み込む。
 たしかに元より律儀な性分であり、兄弟の多い中での末子。公私に渡って誰かしらを仰ぎ見、己を下に置く生活を送っていたからにはそつなくこなせているが、こうして無意識のものだろう綻びが見えるのは、果たして己の視点ゆえにか、己との対峙においてのみなのか。
 もっとも、声高に指摘をするつもりもないし、だから何をどうするつもりもまるでない。その手の一種不遜な片鱗さえ魅力へと変じさせるのが、知盛が脳裏に描く人物の持つ天賦の才であった。何より、見るからにこの生活に馴染んでいるのだ。余計な口出しは、するだけ無駄であり、野暮というものである。
「……難儀なものだ」
 ついうっかり口をついた独り言は、きっと聞こえていただろうに微塵の反応も示さない。九郎あたりが郎党の鑑だと賞讃していた姿は、知盛の目には魔窟仕込みの、公達特有の処世術としか映らない。


 途中の階で濡れ縁へと上がった銀が導いたのは、泰衡の私室とおぼしき曹司であった。据えられている高杯に乗せられているのは、酒器と肴であろう。
「何をお知りになりたい?」
 視線だけで席を勧め、そのまま「下がれ」の一言で完全に人払いをかけてから、泰衡は単刀直入に話を切り出した。端的な口調はともすればそっけなく、冷淡。しかし、声がひそやかに震えているのだから、内心に殺された思いは推して知るべしといったところか。
「アレは、何をやらかした?」
 だが、知盛としても何かを取り繕う意思など微塵もなかった。問われたのだから、答えればいい。余計な言葉を挟むことはなく、知るべきこと、知りたいことを、端的に。
「何ゆえ、かくな結界の内に守っておいでだ? アレは確かに異能を持つ。だが、泰衡殿のなさんと欲すことに役立つそれではないと、ご存じのはずだ」
 泰衡は決して非情なわけでもなければ無情なわけでもない。ただ、ひどく無駄を嫌う性格なだけだと知盛は認識している。ゆえに不思議だったのだ。泰衡の負うすべてにとって、微塵の役にも立たない小娘一人。確かに、その異能ゆえに傍から見れば妙な体調の崩し方をするだろうが、それをわざわざ気にかける理由などない。
「無論」
 そして、問いへの答えはその知盛の認識がいささかも間違っていないことを肯定する。なのに、現実に泰衡の行動はその発言を裏切っている。
「では、何ゆえに?」
「その上で、俺のため、と。そう答えても、信じていただけるか?」
 あたたかく、やわらかく。今度こそ返された言葉に衝撃を受けて身動きを止めてしまった知盛をちらと見やって口の端を吊り上げ、泰衡は手つかずのまま置かれていたふたつの杯に、手ずから酒を満たす。


 片方はそのまま、もう片方を持ち上げてゆるりと唇を湿らせてから、なんとも中途半端な表情で固まってしまっている客人に、泰衡はただただ微笑んだ。
「姫がこうして俺の手許にあったこと、ご不満であられたか?」
「いや」
 唐突に投げ返された問いは、真意が読めなかった。不可思議に首を傾げながらも素直に応じれば、漆黒の双眸に安堵がよぎる。
「俺が姫を匿ったのは、俺のためだ。俺が勝手に、かの姫にあなたの願いを重ね、その身を守ることで、あなたの心に触れられるように、夢想した」
 あなたからの預かり物は、あなたの願い。あなたの信頼。それを裏切るわけにはいかなんだ。
「いずれ、あなたに追いつきたい――その手始めに、あなたからの初めての預かり物を守らんと、そう思いついただけだ」
 紡がれる理由はあどけなくて、裏表などなくて。その純粋さに、知盛は思わず唖然と目を見開いてしまう。

Fin.

back --- next

back to 夢追い人の見る夢は index
http://mugetsunoyo.yomibitoshirazu.com/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。