朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 まともに言葉を紡げるようになった気がしたところで、今度こそ知盛はそっと腕の力を緩めて胸元に抱き込んでいたの頤を拾った。
「少し、痩せたか」
「知盛様も、おやつれになって」
「傷は」
「何ほどのことも」
「偽るな」
 あっさりと返された言葉をそればかりは聞き咎め、畳みかければ細い細い指が、あるはずだった脇腹の、腕の、肩の、傷の位置を正確に辿る。
「熱くて、痛くて、辛くて」
 紡ぎながら苦しげに歪められた表情に、そう言えばもしやまだ治っていないのではないかと今さらのように思い至り、知盛は視線を思わずの肩へと落とす。
「けれど、あなたを喪うことを思えば、何ほどのこともありませんでした」
 しかし、当のは気にした風もなく、静かに知盛を見つめたまま淡々と、口調とは裏腹に張り詰めた声音で、重ね続けたのだろう祈りにしてあえかな強がりを、紡ぐ。
「あなたに守られていることを知っていればこそ、何ほどのこともありませんでした。ゆえに、何ほどのこともないのです」
 言って甘えるように知盛の左胸に耳を寄せ、ほぉっと長く息をついては小さく言葉を継ぎ足す。
「約束を守ってくださって、ありがとうございます」
 震える声がそのまま健やかな寝息に取って代わられる。返答を必要としない沈黙をありがたいと思う己がいることなど、知盛はこの瞬間まで知りもしなかったというのに。


 すっかり意識を落としてしまった娘を丁寧に抱きかかえ、振り返った室内に踏み入れば、用意の良いことに褥が用立てられている。過剰なほどの几帳が部屋の隅に置かれているのも、きっとこの館の主の気遣いだろう。御簾を下ろし、気休め程度の風除けに幾枚か几帳を置いて、薄暗い視界でもはきと認識できる隈をなぞり、知盛はひっそりと息を吐く。
 約束を守ったと、はそう言っていた。確かに、結果として知盛は平泉の土を踏み、こうしての許を訪れた。だが、それが約束を守ったことになるかはまだわからないと、理解できていないわけでもないだろうに。
 しかし、その未来が欠片も見えなかったかつてに比べ、今は可能性の一端を手にしているという実感があるのも事実。ならば先のあの言葉は、未来を願い、祈る言葉なのだろうか。それとも、目の前のこの現実に辿り着けただけでもという、悲しみに沈ませてばかりの娘の真情なのだろうか。


 約束はしたが、守るつもりはなかった。いや、守れる見込みがないのに、約束をしたのだ。
 それは互いに諒解しあったうえでの戯言だった。娘は未来への不安に愁えていて、自分は未来への確信に諦めていた。
 もし壇ノ浦でのあの独断専行が、こうして自分に水底よりもと向かう先を焦らせるためのあの男の策だったというのなら、もはや笑うしかあるまい。けれどきっとあの男はこの結末を願い、しかしこんな顛末は予想だにせず立ち回ったのだと知っている。知っているから、やはり笑うしかなかった。
 ありうべからざる道を照らし、繋ぐその力にはひたすらの敬愛を捧げよう。守られるはずはなく、破られる未来を確信して結んだあまりに不毛な約束を叶えられる可能性にこうして辿り着けたのは、嘘偽りなく倖。


「祈ることで、星の巡りさえ変えられたなら」
 死ぬつもりだった。生き延びられるはずがないと思っていた。
 覚悟を決め、悔いはすれども妄執にはすまいと戒め、叶う限り最良の、最善の道を探し、振り返ることを己に許しはしなかった。心のやわらかな部分は踏みしだき、蝶の翅のあえかな羽ばたきであっても、嵐を越えて穏やかな風に乗れるように、迫りくるすべてに対する刃であることのみを心がけていた。牙を研ぎ、牙を剥く獣としての己に徹することでずっとずっと置き去りにしていた、冷徹さとは真逆のあまりに不確かで頼りない思いが、胸の奥底からこんこんと湧きだすのを感じている。
 迎えに行く、と。そう、空虚な約束を交わした。守れる見込みがなく、守るつもりのなかった約束を言霊として、の心を縛り付けた。手放したがったのも己なのに、他の男になど渡す気はなく、髪を落とし仏の手に縋ることさえ許す気はなかった。そんな酷い男を詰る声を聞くことさえできずに、いずこかの地に己が血で冷たい褥を敷くか、海の底にあるという一門の永遠の都に赴くものと思っていた。
 しかし、なぜだろう。どれほど混沌とした戦局でも、あらゆる陰謀の渦巻く宮中でも、一度として外したことのなかった先読みが、ことごとく裏切られる。
 ならば、許されるだろうか。己に課していた戒めをほどき、振り返った先にあるはずだった夢想を進む先に据え直し、空虚なだけだった言葉を、正しく言霊となすことが。
「未来を欲することも、許されると思うか?」
 すべてが終わったら、迎えに来る。だからその時には、またこの手をとってくれ。そうしたらもう二度と、置き去りになど、したりしないから。
Fin.

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