夢追い人の見る夢は
「父上には会われたか?」
「まだだが、文をいただいた」
最低限と呼ぶには大量の情報を交換してから、知盛は泰衡に伴われて柳ノ御所を後にした。京の人間はこぞって奥州を鄙の地、蛮族の住まう土地と馬鹿にするが、それが根も葉もない評価だと知盛は知っている。ごとごとと揺られる振動は、どこか懐かしい。牛車の造りといい、道の整備の具合といい、平泉は決して京から馬鹿にされるばかりの国ではないのだ。
「八葉でもある還内府殿はともかく、御館にとって、俺は泰衡殿の客人なのだそうだ。ゆえ、御身を先にと申し渡されてな」
「……常は素直であられるのに、どうしてこのような時ばかり遠回しな言葉を選ぶのか」
ほろ苦く笑って付け加えた知盛に溜め息で応じ、泰衡は牛車の壁へともたれかかる。
「俺には女兄弟がおらん。姫君方は、格好の餌食だったぞ」
皮肉気に口の端を吊り上げても、声音が優しいからすべてはあっさり裏切られる。あまりに緊迫した状況など忘れたように、泰衡は穏やかに双眼を細める。
「人の祈りとは、重いのだな」
信心深さで知られる秀衡とは真逆。冷酷冷淡と称され、優秀な陰陽師としての一面さえ否定的に評価されがちな男が、まるで神職や僧侶のような言葉を紡ぐ。
「星の巡りさえも凌駕する、強い力。だというのに、おかげで床からなかなか離れられん」
やわらに据えられた双眸が淡く微笑み、知盛が口にしなかった、文に綴られていたのと同じ素直な言葉を、泰衡もまた同じように紡ぐ。
「あなたは何よりも、まず菖蒲の君のご心痛をやわらげて差し上げるべきであろう」
本当に、よく似た親子であることだと。思った通りに綴った返しの文とは対照的に、今の知盛は微かにはにかむだけで、言葉を飲み込んでおくことにした。
柳ノ御所を出る際、行き先は告げられていなかったが、牛車が辿り着いたのは伽羅御所であるようだった。ここで道を違えるのか、あるいは何か用向きでもあったのか。そんなことを反射的に思った知盛に、泰衡は車を降りるようにと告げる。
出迎えに現れた女房には下がるよう伝え、視線だけでついて来いと促して進む足取りは、無駄がなく音もない。
「誰ぞ必要な折には、枕辺の鈴を鳴らされればいい」
本殿を横切り、釣り殿にも似た離れの対へ続く廊の端で足を止め、泰衡はくるりと首を巡らせた。
「……よもや、こちらに置いていただけていたのか?」
案内をされた時点で確信していたとはいえ、現実を確認すれば問いのひとつも口をつくというもの。これは、破格の扱い。あの娘に纏わせた大義名分のための身分は、かほどの厚遇になど値しない。
「問答は、後にいくらでも」
言ってわずか切なげに眉根を寄せ、泰衡は知盛の脇をすり抜ける。
「人払いをしておこう。ご存分に、過ごされよ」
与えられた気遣いの真意は、きっとしんと張りつめたこの結界の向こうに隠されている。
第六感で探り当てた不可視の境界にて足を止め、そっと伸ばした指先はしかし、何の抵抗もなくすり抜けた。察するに、人よけの結界。通過して知るのは、無意識に張り詰めることを強いられていたらしい神経の強張りがほぐれることと、そうまでして隠さねばならない現実。
濡れ縁をぐるりと渡れば、本殿からの人目を避けるような位置で、細い肩が階の脇の勾欄にゆるりともたれかかっている。その細い細い背中を覆っているいささか褪せた蘇芳に、知盛は息を詰める。
足運びの作法など知らない。力の加減など知らない。人目など構わない。理由はいらず、建前も必要ない。
その瞬間に至るまで、己が何を思い、どのように動いたかはわからなかった。ただ、きつくきつく、上半身を振り返らせた娘のことを、かき抱いていた。
とももりさま。ほどけた声が、頼りなく紡ぎ出される。言いたいことは様々にあったはずなのに、真っ先に何を言いたいかがわからなくて、知盛は結局、同じような言葉を返すことしかできなかった。
「……」
久方ぶりに自らの舌に載せ、喉を震わせた名がどこか遠くて、知盛は戸惑う。違う、違う。もっと違う声で、音で、呼べたはずだ。在るべきカタチを探して、そのまま何度も音をなぞる。
「……、」
呼べば呼ぶだけ娘は知盛を呼び、強張るばかりだった肩から力が抜け、きつく抱きしめられて不自由な中でも身を任せる。
震える肩は細かった。縋る指は細かった。こんなにも頼りなかっただろうか、と。ようやく名を満足に呼べるようになり、次いで思った途端、知盛は触れていることが怖くなった。
指先に思い出すのは、柄の硬さ。肉を断つ際の手応え。返り血の熱さと、冷えきった自分の体温。
温かくやわらかく脆いものに、正しく触れる術が、わからない。
けれど、戸惑いに従って身を起こそうとすれば、細い指が力なく追いかけてくる。こうして追いすがる指を、いったいいくつ、どれほどの無情さでかつての夜明けに振り払ったかなど覚えてはいない。そして、似て非なるこの指だけは、ついぞ振り切ることができずにいたのだと、覚えている。
「祈って、おりました」
こうして再びまみえられることを、ずっと、ずっと、ずっと。
それこそ祈るように告げられて、知盛はもう一度、彼女のことを黙って抱きしめていた。
Fin.