夢追い人の見る夢は
気配を断ち、呼吸さえ潜め、霊地の静寂に溶け込むようにして知盛はただ静かにすべてを傍観していた。問答に対する興味など、微塵もありはしない。すべては自明の理。知盛には、とっくに予想のついていたことばかり。ゆえに、むしろこのような問答が成り立つことへの疑問と呆れしか存在しない。
対価なくして奇跡を操れるのは、それこそが神の加護。その非常識さに、理不尽さに気付けないならなんと愚かなのか。なんと幸福なのか。
それが世にあまねく齎されし恵みだと勘違いしているのなら、なんと傲慢なのか。なんと浅ましいのか。
この顛末が、己らに与えられた加護への驕りによってもたらされたというのなら、むしろ必要悪でさえあるだろう。人の身にて世界の理を手にし、それらを睥睨する立場に立ったと錯覚したことへの、世界からの意趣返し。昇った日はいつか落ちるものだが、驕り高ぶればその凋落に拍車がかかるのは権力も才覚も同じ。それを見知り、そうして拍車をかけていた張本人達だというのに、いざ己が追い立てられる立場に立てば、すべてを見失うのが世の常だとでもいうのだろうか。
小さく小さく、知盛は息を吐く。
“源氏の神子”がどうなろうと、知盛には何の痛痒もない。
幾度かとはいえ刃を交わし、女の身でありながらなかなかに腕の立つことだと認めてはいる。まだ、磨けば光るだろう。開きかけの蕾がどう花開き、どのように結実するか。それを見届けられれば愉しかろうとも思う。だが、その程度の好奇心でしかない。
たとえば、同じような立場に将臣が立ったとすれば、知盛は手を差し伸べることを迷いはしなかった。ゆえに知盛は今なお生きており、踏むつもりのなかった北の地に立っている。
神子と、八葉と、徒人と。さて、それらの間に命の重みの違いを感じるのは、いったいどれほどの人間だろう。
少なくとも、知盛にとって龍神の神子は特別な存在ではない。平家の将としての知盛にとっては特異な敵であったが、それ以上でもそれ以下でもないのだ。将臣の命が知盛の中で重みを持ったのは、八葉であるためではない。龍神の神子を尊崇する理由など思いつかない。だから知盛にとって、神子を至上とする主義主張は、理解や納得はできても決して共感できるものではなく、恭順する義理などまるでない事象だ。
伝承のいわく、八葉は神子を守るための存在なのだという。
八葉として選ばれることに、当人の意思など関係ない。望んでも選ばれないものなど、掃いて捨てるほどいるだろう。望んでもいないのに選ばれた者こそが、ほとんどだろう。
少なくとも、熊野から平泉までの道中において見知った八葉の内、そう在ることを望み、そう在ることを喜んでいるのは天地の玄武と天の白虎のみであるように思われた。
無論、八葉はそれぞれに己に課された使命を理解し、基本的にはそれぞれのやり方と領分でその役目をまっとうしようとしている。それは、望まざるものであったかもしれないとはいえ、神の加護を得たことへの対価。与えられたモノには報いなくてはならない。それこそが世の常なのだ。だが、それがすべてではないだろうと、知盛は思ってしまう。
ただ守れと、それが定めだというのなら他ならぬ自分ばかりはあの子どもを守ろう。
平泉への同道に腹を括った際、何も補正することなく内心の思いを言葉に託したなら、きっと知盛はそう紡いでいた。
守ってやらねば、もはや崩れる。あれは強いが幼く、脆い。研ぎ澄ますことを急ぎすぎた刃は、いつなりと折れてしまいかねない危うさゆえに、鋭さが美しく、いとおしい。
もう、十分に重荷を背負った。これ以上を負わせるのは酷というもの。独力で立てるほどの強さを持っているとしても、今ばかりは休ませてやらねばなるまい。果たさんと思い定め、成さんと決めたことを成し遂げて、なぜ束の間の休息さえ許さずにその心を追い立てる。
知盛にとって、将臣はどうしたって年下の、それこそ弟のような存在だ。確かに優秀な武将として成長した。戦場にて背を預け合うに足る同胞。しかし同時に、心根の優しい、庇護すべき養い子なのだ。
「この地の龍脈は、とても弱っているよ」
しばらく前から既に呪詛の種の回収が始まっているという銀の言葉をきっかけに、ここ最近の平泉の状況について説明を受けていたはずの面々からふと上がった声に、知盛は耽っていた内省から意識を浮上させた。
「私も力をうまく汲み取れないし、だから神子も力をうまく汲み取れなくて、きっとそれが負担になっているんだ」
「望美さんの力は、あくまで龍脈を通じて発揮されているということですか?」
「神子は、器。汲み上げ、導くもの。私がこうして姿をとるのと、とても似ている」
たどたどしく、神の常識を人の言葉に当てはめようと思案する幼い声に、知盛は鋭く双眸を引き絞る。
「この地の龍脈は、呪詛によって乱されて、穢されている。汲み取るのも難しいけど、汲み取っても、それによって穢れを浴びてしまう」
「踏んだり蹴ったりだな。八方ふさがりってことかよ」
険しい表情で考え込んでしまった弁慶に代わって将臣が肩をすくめるが、軽妙さを装った言葉とは裏腹に、その表情は暗い。つまり、呪詛を完全に取り去らない限り、ただ生活するだけでも白龍と望美にとっては毒の海で泳いでいるようなものだと告げられたのだ。
良くも悪くも、少なくともこの場に集う八葉の中に、陰陽道に明るいものはいないようだった。ゆえに事の深刻さを正しく把握できているかはわからないが、縁薄い世界のことといえ、好ましくない状況であることはわかっているのだろう。それぞれが表情を落とす様子を視線だけで見渡し、そして知盛は静かに銀の反応を観察する。
「とにかく、まずは高館に戻ろう」
しかし、銀が何かしらの言葉を発するよりも先に、場を取り仕切ったのは九郎だった。
「このままこちらにお邪魔し続けるわけにもいかない。しっかり休む必要があるのなら、なおのこと高館に戻る方がいい」
さすがに九郎の状況判断は素早く的確だった。まず己らの拠点とする場に戻り、守りを固めて打って出る方法を検討する。状況が不透明になった今、それは実に堅実で妥当な選択である。
「そうですね。とりあえず、望美さんと白龍が落ち着いたら、戻ることにしましょう。場合によっては、やはり車を手配してもらいたいのですが」
「ご入用の折には、いつなりとお申し付けいただければ」
追随して頷いた弁慶が銀を振り返れば、余計な言葉など挟まず、求められた内容への必要な返答のみが紡がれる。
何も知らないのか、知っていて口止めされているのか、当人の判断で黙っているのか。動かぬ無色の微笑から、銀の思惑は読みとれない。その読みづらささえ、常の表情が微笑である銀を知ってしまえばこそ、意図してのものか偶然の産物なのかもわからない。それゆえに苛立つし、それゆえに困惑する。似たような苛立ちは、遠くない過去に過ぎるほど覚えがある。
無表情よりもよほど、淡い微笑の方が余計な勘ぐりさえ許さない究極の仮面であることを、知盛は嫌というほど実感して生きてきたのだ。
Fin.