朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 答えを期待するようにしばし口を噤んでいたものの、幼い少女にはまださほどの忍耐が備わっていないのだろう。思いを声に託さずとも、目の縁にあっという間に溜まってしまった涙が流れ落ちるのと同時に、まなじりを吊り上げて早々に言葉を重ねていく。
「あねさま、ずっと床を上げられなかったのよ? ずっと、ずぅっと、痛かったの」
 やっと治ったのに、また痛かったの。でも、本当にもう大丈夫なんですって。だから、能子は綺麗な紅葉を探しに来たのよ。
 言ってずっと右手に握りしめていた小振りの枝を眼前まで持ち上げ、己を能子と呼んだ少女は、流した涙をぬぐいもせずににこりと笑う。
「きっと喜んでくれると思うの。あねさま、お元気だった時は、よくここでお祈りしていたもの」
「……祈って?」
「そうよ」
 ようやく言葉を差し挟む隙を見つけ、けれど知盛は驚いたように能子の紡いだ単語をなぞり返すだけ。どこか茫洋とした声音に、得意そうに能子が深く頷く。
「でもね、何をお祈りしていたかは、内緒なのよ。とっても大事なお祈りだから、誰にも言ってはいけませんって」
「それも、アレの教えか?」
「うん」
 幼い声の伝える何気ない言葉に、思うところでもあるのだろうか。微かに震える声がいかにも感情を押し殺しながら問いを重ね、無邪気な肯定に知盛はぎりりと、自由なままの右手を握りしめる。
「叶わなかったらきっと、みほとけを嫌いになっちゃうくらい、大事な大事なお願いごと。だから、叶えられたから、痛いのは大丈夫って言ってたわ」
 無邪気に語る能子は、その教えに隠された真意を半分も理解していない。だが、知盛にはわかる。わかるからこそ、唇をきつく噛み締めるのだ。


 もっとも、そんな表情の変化を目の当たりにできたのは能子のみであり、能子は己の内に渦巻く感情への対処だけで手いっぱいだった。ゆえに誰の目にも映りはしない。ただ、その身にまとわりつく思いの色が、いっそう深まったことが察されるだけ。
 当初の立ち位置と能子がやってきた方角の関係上、将臣らに完全に背を向ける形で膝を折っていた知盛が、ふと息をついて小さく首を振る。
「苦言は後より、いかほどにもうかがおう……ところで、姫。枝葉のほかに、何かお持ちか?」
 能子にとっては唐突極まりないだろう問いかけは、しかし将臣らにとっては願ってもないもの。じっと息を殺して少女を凝視している白龍といい、能子が何かしらの手がかりを持っているのはほぼ確実。それでも、推定とはいえ藤原家にゆかりがあるとおぼしき姫君に無礼を働くのは憚られる立場ゆえ、何ともしがたく知盛とのやりとりを見守っていたのだ。
「うん。さっきね、綺麗で怖い石を見つけたから、泰衡様にあげるの」
 言いながら紅葉の枝を知盛に預け、能子は襟元から黒光りする石片を取り出した。
 小さな手が無造作に掴むそれが見えたのだろうか。白龍が掠れた声を絞り出せば、すかさず弁慶が「呪詛の種、ですね?」と確認を入れる。
「うん。すごく、嫌な気配だ」
 そして、もちろん知盛がそんな背後のやりとりに気付かないはずはなく、将臣らはそれと知ってここで、はやって口を出すような愚は犯さない。ただ、この場にはもう一人、当然ながら能子のことを見知っている存在がいたのだ。
「では、私から泰衡様へとお届けいたしましょう」
 足音も立てなければ気配もろくに読みとらせず、いつの間にか場を移動していた銀が知盛の斜め後ろからそう声をかける。
「菖蒲の君を見舞われるのでしたら、祓がご入用でしょうゆえ」
 丁重に、穏やかに申し出る声には年端もいかない少女を侮る色など微塵もなく、理想的なまでの従僕としての姿だった。言ってするりと膝を折れば、銀がいかに知盛と背格好が似通っているかが嫌というほど浮き彫りになる。しかし、能子の反応はまるで逆だった。


 びくりと肩を揺らして、傍らの知盛へと縋るような表情を向けるのだ。
 思いがけない対応に、望美をはじめ銀がいかに有能で謙虚な郎党であるかを身をもって知っている面々は、殺しきれない驚愕をそれぞれに漏らしてしまう。呉越同舟の道すがらで多少は相手の人となりを知ったとはいえ、源氏軍に所属していたという過去は“平知盛”への安直な慣れ合いを無意識のうちに拒絶する。そうでなくとも、表情の変化に乏しく、端的な会話を好むのかどうしても物言いがぶっきらぼうになりがちな知盛よりは、ごく一般的に考えても今の銀の物腰の方が誰からも警戒されないものだろうに。
「どうあっても、自身で届けねばならないのか?」
「ううん」
「なれば、預けてしまえ」
 戸惑う心を宥めるように髪を撫でおろし、知盛は静かに銀の申し出に言葉を添える。
「御身はいまだ、神の理の内……善からぬモノには、極力、触れぬ方がいい」
 続けられた言葉の意味が取れなかったのだろう。勧めに従って手の内の石片を銀に渡し、そのまま不思議そうに振り仰いできた能子に、知盛は「独り言だ」と淡く笑う。
「今後は、見出したなら郎党なりに申しつけ、自身では触れぬよう」
「持ってきちゃいけなかった?」
 銀とはまた趣の違うどこか慇懃な口調でありながら、確かな強制力を持つ忠言に能子はしゅんとうなだれてしまう。
「いや、おかげで手間が省けた。だが、あまり好ましいものではないと、見知ったゆえに」
 以後、気に留めていただければなお良いと。そう継ぎ足して肩を優しく叩いて振り返った知盛は、場に留まっていた、望美らを案内してきた高僧に視点を据える。
「お任せしても?」
「ええ、承りましょう」
 入り口での問答でも泰然としていた僧侶は、唐突な依頼にも慌てることなく深く頷く。そして、能子は散々に「きっといらしてね? 絶対よ!」と知盛に来訪を念押しして、紅葉の枝を手に去っていった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。