夢追い人の見る夢は
もう何が起きても驚くまいと思っていたし、驚かないだろうと思っていた。だというのに、早速その覚悟と予測が裏切られる。せめては最期を看取ろうと思っていた“義弟”がこうして快癒したことも、わけのわからない行動にも。そして辿り着いた、深い憔悴と憤怒の底に沈む様子にも。
将臣に左腕を預けたまま、知盛はきつく眉間に皺を寄せて瞼を下ろしていた。殺された呼吸も、小刻みに震えながら掛布にと供されていた衣を握りしめる右手の指先も、将臣の知らないもの。かくもこの男のすべてが曝された姿は、見たことがない。
声をかけてもいいものか。かけるとすれば、いったいどのような言葉か。空転する思考回路の向こうでぼんやりと言語中枢の海に潜っていた将臣を、今度こそ知盛が呼ぶ。
「有川」
「おう」
「水か、白湯か……何か、ないか」
「ん? ……ああ。喉、渇いてるよな」
ゆるりと、長い銀色の睫毛の向こうから姿をみせた深紫の双眼は常と同じく底の見えない無表情に覆われており、手向けられた言葉は丸五日を眠り続けた怪我人の要求としてはひどく健康的。そういえば、自分は万が一の可能性を捨てきれなくて、焼け石に水と知りつつも意識のない“義弟”に水を飲ませるべくここを訪れたのだったと、姿勢を整えながら枕辺に揃えてあった提子と椀に手を伸ばす。
会話の流れで両手の自由を取り戻した知盛は、それ以上の自傷に耽りはしなかった。乱れてしまった包帯の位置を黙って直し、先とは真逆のごく洗練された所作で袖を通しなおす。その気にさえなればどこまでも優雅に振舞えるこの男は、その土台となっているのだろう無意識の動作もまたひどく美しいと、将臣はそんな呑気なことを考える。
「ほら、水。自分で飲めるか?」
「飲めぬように、見えるのか?」
椀に並々と清水を注いで差し出してやれば、憎まれ口が返される。ああ、いつもの知盛だと胸のどこかで安堵しながら、刷くのはあたたかな苦笑。
「礼ぐらい言えっての」
「……兄上におかれましては、手ずからのご慈悲をたまわり……。まこと、恐悦至極にございます」
「お前、さっきまで意識ぶっ飛ばしてたってのに、絶好調だな」
自分もまた憎まれ口を返して、将臣は頭をかきながら言葉を続けた。
「にしても、本当に良かった。何があったかは知らねぇけど、もう大丈夫そうだな」
弁慶にあえて告げられるまでもなく、覚悟はしていた。戦場に出て、敵味方の傷と命の行く末とを山ほど見てきた。傷の深さから生死の判別をつけられるほどには、将臣も相応の経験を積んでいる。それゆえの勘が、ずっと諦めろと囁き続けていた。
もう無理だ。助かるはずがない。だから、さっさと諦めて見切りをつけてしまえ、と。
何があったかなどわからない。わかるはずもない。ただ、ここまでくれば同じことと、悪あがきとも未練とも呼べない子供じみた衝動を許容して場所を貸してくれたヒノエへの感謝と、一時は呪いさえした神なる存在への謝念とを素直に噛み締める。
「傷は、もうろくに残ってはおらんようだ、な」
喜色と安堵をひたすらに浮かべている様子に、水を差す気にはならなかったのだろう。それでもなお慎重に息を吸い込み、知盛はゆっくりと、状況を確かめる言葉を選び出す。
知らねばならぬこと、把握せねばならぬことは山のように。そも、くしくも将臣が言ったとおり、知盛自身も死を覚悟していたのだ。たとえどのような奇跡が働こうとも、あの軍場で目を覚ましたところで、再び意識が奈落へと蹴り落とされるのは時間の問題であったはず。どれほどの時間を眠って過ごしたかさえわからないが、こうして安穏と目覚められる環境にあることが、まず信じがたい。
「ここは、どこだ? 俺はどれほど、眠っていた?」
そも、何がどうなって、この状況が成り立っているのか。声に出されなかった問いかけまできちんと汲み取ったのだろう。瞬きひとつをはさみ、将臣はその双眸に勇名高き還内府の表情を湛える。
「状況は良いとは言えねぇな。とりあえず、説明する。辛くなったら、途中で言えよ?」
生死の端境をさまよったばかりの“義弟”への気遣いは忘れず、しかし時間にゆとりはないのだと雄弁に語る焦燥をあらわに。何かに急き立てられるようにして、もはや味方の兵の一切を失った還内府は、残された己が右腕とも幻影の奥の真髄とも称せる相手にすべての真実を曝け出す。
Fin.