朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 浮上する感触に続き、知ったのはさらりと冷たい風。冷たく、潮の香が遠い。もう海から離れてしまったのかと、ぼんやり考える。
 潮の気配は遠く、そして菊花の仄かな気配も遠かった。そっと髪を梳くひやりと冷たい指先も、髪と衣が擦れてはらはら降り積む音も。
 ああ、そういえば何か言われたな。そう思い、聞きたくなどないと感じたことを思い出す。
 放っておいてはいけないのに、伸ばした指先は、届かずにすりぬける。
 当然だ。自分は遥かな西の海に、あの娘は、遥かな北の地にある。それを選んだのは己で、強いたのは己で、そうすべきと思い定め、それを悔いることはすまいと決めた。けれど、手の届かないところに置いていては、あの娘の珍妙な無茶をとどめてやることさえできない。それが、気がかりだった。
 確証はないが、確信がある。あの娘は、とんでもない無茶をやらかした。それを強く感じているのに、声を届けることもできない。頤を掬って、俯く視線を己に向けることもできない。噛み締めているだろう唇から力を抜くようになぞることも、握りしめられた指の爪で手のひらを切ってしまわないよう手首を握ってやることも。


 深く、息を吸い込む。振り払えない倦怠感に全身を絡め取られながら、もはやそのかいなの内にいざなってくれない睡魔に諦めて瞼を持ち上げた。視界を埋めるのは、輪郭のはっきりしない大きな梁。
 細く、長く、肺腑に過度の負担をかけることのないよう、吸い込んだ息を吐き出す。たったそれだけの動作にさえびりびりと痺れる全身に、自分は生きているのかと、ほんの少しだけ驚いた。いつ意識を手放したかも定かではない。それはすなわち、自覚から目を背けていた限界をいつの間にか踏み越えていたということだ。辿れる限りの記憶の最初も最後も、朧にちぎれて判然としない。
「――とももり?」
 何をする気にもなれず、ただゆるゆると瞬いていた無為の時間に、そしてふと入り込んできたのは掠れ、震えた脆い声。首を巡らせることさえ億劫で、ちらと動かしただけの視野に、淡い光から切り取られて浮かび上がるのはあまりに懐かしい群青。
 あにうえ。紡いだつもりが音にさえならなかった声を、当の相手は過たず聞きとったらしい。くしゃりと頬が歪み、怒っているのか困っているのか泣いているのか、よくわからない貌をする。そのままふらふらと、しかし足運びに要する時間さえままならぬとばかりに慌てて距離を詰め、床の段差につまずいたままどさりと両膝と両手とを褥の脇につく。
「お前、気がついたのか?」
 目が覚めていることなど、見れば知れるだろうに。よくわからないことを言うと思い、そういえばこの人はそういう人だったかと思いなおした。しかし、知っている姿よりも随分と若い気がする。では、ここはやはり冥府なのだろうか。


 ゆるりと睫毛を上下させ、ひたと紺碧の双眸を見つめてから、もう一度喉を震わせる。ばたばたと手足を動かして這い寄ってくることになど構わず、慎重に息を吸い込み、慎重に声を紡ぎあげる。
「あに、うえ?」
 感じる違和は何ゆえだろうか。何か、何か大切なことを忘れている。すべてが曖昧に溶けている記憶に、何か大切な要が潜んでいる。それはわかるのに、すべてを紐解くきっかけがあまりにも足りなすぎる。
 兄ならば。この偉大な人ならば、道を示してくれるだろう。過去にも未来にも、踏みしめるべき現在にも。無条件に信頼のすべてを明け渡して言葉を続けようと思ったのに、先よりも明確に不快さに瞳を歪めて、覗き込んできていた“兄”が先んじて口を開く。
「目ぇ覚まして一番にそれかよ!? ふざけんなッ!! 俺が、俺がどんだけお前のこと心配したと……」
 憤懣やるかたないとばかりに鮮やかに迸るのは激情だ。はて、兄はかくも直情径行な質であったかと疑問に感じたところで、頭の隅でかちりと何かが当てはまる。
「大体、お前はいつもそうだ! 人には無茶すんなとか、もっと後先考えてから動けとか言うくせに、肝心なところでは自分の方がよっぽど――」
 もはやこれ以上、彼の言葉を黙って聞いているつもりなどなかった。当てはまり、思い至れば後は早い。頭の回転は決して悪くないと自負しているし、ぼんやりと引っかかっていた気がかりを追究することの方がよほど重要だと直感したのだ。


 頭上から身を退かれていたことは幸いだった。そうでなければ、思わず反射的に飛び起きたと同時に、互いに顔面をぶつけていたことだろう。その程度の痛みに頓着するような知盛ではなかったが、おもしろくないと感じることも疑いようはない。
「まだ動いたりしたらダメだろうが!」
 極限まで双眼を見開き、慌てて寝かしつけようと腕を伸ばしてきた将臣は、しかし中途半端に言葉を途切れさせてもはやこれ以上はないと思われた瞳をさらに見開く。起こした上半身の単衣の袖から苛立ったように腕を抜き、いっそ引きちぎらんばかりの勢いで巻かれていた包帯を緩めた向こうに覗くのは、薄っすらと傷跡が残るばかりの真白い肌。
 あったはずの傷がない。確かに見たはずの、あの絶望的な傷が見当たらない。あまりに信じがたい光景に声を失って息を飲む将臣とは対照的に、知盛はぎりりと歯を鳴らしてその肌に爪先で新たな傷を刻む。やり場のない激情をぶつけるように立てられた爪が赤い筋を描き、血が滲む様子に将臣は今度こそ慌てて知盛の腕を掴み取る。
「やめろよっ!」
 何がどう作用したかはわからないが、薬師でもある弁慶にきっと助からないだろうと言われていた傷は、ひとつ残らず完治しているようである。だからといって、自傷行為を見過ごす理由にはならない。抵抗を覚悟しながらも強く握って引き剥がした腕は、意外にも力を篭めることにさえ厭いたと言わん様子でだらりと将臣に預けられる。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。