朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 途端、知盛を中心にただわだかまるばかりだった漆黒の気配が、あっという間に女の身へと吸い寄せられていくのを誰もが目の当たりにする。その光景があまりにも圧倒的で、ゆえに今度こそ、庭に響く甲高い声の主の来訪には、誰もが反射的に得物を握りながら弾かれたように振り返る。
「あねさまっ!」
 次なる客人は、護衛とおぼしき兵に付き添われた少女だった。意志の強そうな吊りあがりがちの猫目が、わかりやすく安堵と心配に濡れている。
 付添いの兵は、高館の入り口で警護にあたっていたうちの一人だった。目を覚ましてからまだ外に出ていない将臣は与り知らぬことだったが、敦盛やリズヴァーンは朝の早いうちに警護の面々を一通り確認している。彼がつき従うというのなら、少女は奥州藤原家に所縁のものだということ。刃を向けていい道理のあるはずもなく、小さく目礼を送って得物を下ろす。
「将臣殿、あちらは恐らく、藤原家の姫君ではないかと」
 天地の玄武が揃って得物を下ろすからにはといささか警戒心を薄めはしたものの、いまだ射抜くような視線で兵に庇われるようにして飛び出すのを止められた少女を見据えていた将臣は、敦盛のその説明にようやく眼光を和らげる。そして、幼い声に呼ばれたと思われる当人が、何事もなかったかのような風情でゆったりと上体を起こす。


「姫様、お一人で外に出てはなりませんと、あれほどに申し上げましたものを」
 言いながら振り返る身から、あの禍々しく息苦しい気配は微塵も感じられない。唖然としながら将臣が慌てて腕の中へと視線を落とせば、眠る知盛の顔色は先よりもだいぶまともになっている。
「でも、だってお邸にいないから」
「まして、ここは泰衡様より立ち入りを禁じられておいでのはずです。あなたも、警護を務めるならば、姫様にいかにしていただくべきかおわかりでしょう」
 子供の言い訳にも、苦しい姿勢ながら精一杯に腰を折る兵に対しても厳しい叱責を突きつける姿には威厳が満ちている。やはり只者ではなかったかと内心で確信しながら、将臣はじっと耳をそばだてて可能な限りの情報収集に徹する。
「御前も、姫様がおられぬと知られればお心を痛めましょう。御所から郎党を寄越していただきますので、お早くお戻りください」
「……あねさまは?」
「わたしは、泰衡様にお会いせねばなりません」


 そこまで言ってからようやく視線を少女から引き剥がし、姉と呼ばれた女はうかがうように将臣達を眺めやる。
「申し訳ありませんが、しばし、館のどちらかをお借りできますか? 遣いを出しますので、誰ぞ迎えが参りますまで、姫様にお休みいただきたいのです」
「この地において、異端は我らの方だ。好きにするといい」
 問われはしたものの、平泉における自分達の立ち位置が把握しきれていないため答えることができず眉根を寄せてしまった将臣とは対照的に、リズヴァーンが淡々とした口調ですかさず肯定を紡ぐ。
「神子が戻るまで、我々はこのあたりで控えている。近くが不安なら、離れた部屋を使うといい」
「泰衡様のお客人を、わたし共が無碍になどするはずはございませんが」
 付け加えられた注釈に困ったように微笑み返し、けれど女はリズヴァーンの言葉を否定しない。
「お言葉に甘えさせていただきましょう。門に近い部屋をお借りします」
 そして、少女と兵に先に行くようにと告げてから女は改めて背筋を伸ばし、一同に向かいあう。
「また、ご挨拶は改めて。ただ、どうぞ、此度のことはお心の内に留めていただけますよう」
「此度のこと、ってのは、どっからどこまでを言ってんだ?」
「わたしに纏わるすべてを」
 探るように問い返した将臣に嫣然と笑みを向け、女は朗々と、冷え切った言葉を紡ぐ。


「そちらの方も申されました通り、ここは奥州、藤原氏を主と仰ぐ国にございます。いずれ、しかるべき折りにしかるべき形で、皆様方にお会いすることとなりましょう」
「……ここで会ったことを、なかったことにしろってか?」
「わたしがあなた方といかな縁を結ぶべきかは、泰衡様がお決めになること。少なくとも、今ここで、わたしはあなた方に己が素性を名乗るわけにはまいりませんゆえ」
 ひとつひとつの言葉を力強く紡ぎ、念を押すように一人一人の瞳をひたと見据えてから、女はかかとを引く。
「先触れもないおとないを、失礼いたしました。後にまた、まみえましょう」
 告げて実に優雅に腰を折った女は、そのまま流れるような足取りで場を立ち去っていった。


 思いがけない気迫に呑まれてつい呆然と細い背中が見えなくなるのを許してしまってから、将臣ははたと我に返って白龍を呼んだ。
「で、知盛は大丈夫なのか?」
 少なくとも、腕の中で細く細く呼吸を繰り返す様子から、先ほどのような危うさは感じられない。あのおぞましい寒気はもう微塵もうかがえない。ならば助かったのかと、触れることを拒絶された経緯への理解などまるで及ばないまま、将臣はどこか現実離れした感覚で問う。
「今の知盛は、陰陽の均衡が整っているよ」
「大丈夫、なんだな?」
「それは、私が決められることではないもの」
 困ったように首を傾げ、白龍は確信を与えられず苛立つばかりの将臣に、神の目に映る真理を告げる。
「黄泉の陰気をああも馴染ませられるなら、魂が黄泉に向きつつあるということ。黄泉に焦がれる魂を宿す命を、あなた方の言葉では、大丈夫とは言わないのだろう?」
 臆すことなく与えられた見立てにさほどの衝撃を受けた様子もなく、将臣はきつと唇を噛んで知盛を抱く両腕に力を篭めた。反対にひどく驚いた様子で視線を投げてくる譲らの歪みのなさがあまりに眩しくて、祈るような思いで腕の中の体躯をかき抱く。
 この男が極度に歪んだ現実主義者であり自殺志願者であることなど、あえて暴かれずとも知っているのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。