夢追い人の見る夢は
一関を越えたあたりから、もはや将臣以外の面々にも隠すことさえ不可能なほど調子を崩していた知盛が倒れたのは、それでもなんとか平泉の中心地へと踏み入り、銀に案内された館に辿り着いてからのこと。もう大丈夫との気の緩みも手伝って、誰もが与えられた部屋で警戒心もなく床に転がった。その中で律儀にも、上掛けにと肩に衣を羽織りながらも濡縁で柱に背を預け、愛刀を抱え込んで夜を明かし、翌朝になって起き出してきた将臣の無事を確認してからだった。
ちらと視線を流して将臣を見やったきり、細い吐息を最後にそのまま崩れ落ちた体とは裏腹に、おぞましいほどの寒気が知盛から流れ出す。反射的にその身を受け止めたのはいいものの、あっという間に溢れかえったわけのわからない気配に身じろぎさえできなくなった将臣の許に、高館に残っていた面々が駆け付けるのにはさほどの時間も必要ない。
熱を出すこともできず、肌の冷たさは体の芯からのものであるようで知盛は微動だにしなかった。先に目を覚まし、秀衡、泰衡両名への挨拶のためにと柳ノ御所に出かける九郎と弁慶のことは無言ながらもきちんと目を上げて見送ったというのだから、ただひたすらに将臣の存在だけが知盛の中では最後の一線だったのだろう。そして、昏倒することで意志による箍が外れて明らかになることは、あまりに多い。
現場の状況を見て取るや、まず口を開いたのは白龍とリズヴァーンだった。
「敦盛は、離れた方がいい」
「瘴気か?」
「ううん、違うよ。これは、陰気」
その発言の根拠がわからなくとも、こと気配だの穢れだのについて、神である白龍の言葉を疑う道理はない。目を見開いてその場に縫いとめられたように身動きができなくなっている敦盛を半ば抱えるようにして将臣達から距離を置きながら、短く問うたリズヴァーンに白龍は悲しげに首を振る。
「生きた陰気ではなくて、死した陰気。黄泉の息吹」
「黄泉の? でも、どうして? だって、知盛殿は生きておられるのではないの?」
「生きているよ。生きているけど、死を取り込んだ」
朔の問いかけに憐れむように呟いた白龍は、表情を歪めながらもわずかに身を乗り出してきたその細い体を押しとどめる。
「朔も、離れた方がいい」
あなたと敦盛には、近すぎる。その言葉こそ、知盛がこうして溢れ出させる闇色の気配の正体を、何よりも雄弁に語っている。
今の知盛に医学的手法がろくに役立たないだろうことは、この世ならざる力の類に結局いつまでたっても不慣れであったと自認している将臣にも明白だった。それでも触れる肌の冷たさと呼吸の頼りなさに触れて何もせずになどいられず、自分の上着を纏わせてやりながら、将臣は掠れた声を無理矢理に絞り出す。
「どう、すればいい?」
何をすればいい。何をしてやれる。今度こそ、今度こそとずっとそう思っていたのに、いつもいつだって自分を守ってくれる、この男のために。
呻き声ひとつ上げない相手をきつく掻き抱き、将臣は奥歯を噛み締めてひたすらに救いを乞う。
「このままじゃマズイってのは、わかる。どうすりゃいいんだ?」
「浄化しないといけないよ。でも、今の知盛では、とても難しい」
「だからッ! 俺は、どうすればいいのかって――」
「取り払うのです」
ひたすらに結論を急ぐ心境においてはもどかしいだけの白龍の物言いに、ついに声を荒げた将臣の言葉を、場違いなほどに静かな声が遮る。
弾かれたように音源たる庭を振り返ったのは、将臣と譲と朔のみ。残る面々は既に彼女の出現に気付いていたのだろう。敦盛とリズヴァーンは警戒も明らかに身構えており、人の理に縛られない神は、ただ静かに首を巡らせる。
「溢れさせまいと戒めるあまり、深く深くに取り込み過ぎたのでしょう。傷と混じってしまい、陰気のみを祓うのはもはや不可能にも等しいこと。ならば、傷ごと取り払ってしまえばいいのです」
「……アンタ、誰だ?」
派手さはないが、質の良い衣を纏った女だった。髪の長さからして、権力者に仕える女房か下級貴族の娘。しかし、それにしては纏う気配が洗練されている。そして何より、この館に自由に出入りするだけの権力を持っているなり、警護の目をすり抜ける何かしらの術を持っているということ。ただの娘ではないだろう。
「うつほのやどりにございますよ」
鋭い誰何にはんなりと微笑み返し、告げて女は足を踏み出す。ますます警戒心を強める敦盛とリズヴァーンになど見向きもせず、さくり、さくりと庭を踏む。
女の狭い歩幅でたかだか十歩程度の距離ではあったが、詰めてみてはじめて知れるのは、その頼りなさ。肉づきは薄く、頬はやつれ、髪も艶に乏しい。そして、血の気のなさが儚げな風情に拍車をかける。吹けば飛び、触れれば折れてしまいそうなほどに、不健全な立ち姿。けれど、女の双眸は生きていた。強く鋭く、悲しみの光を弾き、揺らぐことなく知盛だけを見つめている。
つと伸ばされた指先も、やはり細くて骨張っていて、白かった。つい反射的に知盛を抱きかかえて身を竦める将臣に、女は切なげに笑って視線をまず白龍へと流す。
「神よ」
誰も名乗りなど上げていない。互いを呼んでもいない。なれば、彼女がこうして個々を認識しているのは何ゆえか。不審と疑念はしかし、糾弾の意思よりも、彼女が何らかの可能性を握っているのなら、縋りたいという思いにこそ凌駕される。
「この身に、彼の方を害すような力はありますか?」
問いは端的で、将臣の内心を的確に言い表している。そして、問われた神は迷いなく首を横に振る。
「ううん。あなたには、悪意も害意も感じない」
「では、そちらの鬼の方。この手に、彼の方を傷つけるだけの力があると思われますか?」
続けて問いかけられたのは、リズヴァーン。伸ばされた指先が宙でそのまま留まっているのを青い瞳がちらと見やり、低い声がやはり「いや」と否定を告げる。
「信じてほしいとは申しませんが、いたずらに拒むだけでは埒が明かぬとご存じでしょう? 可能性は、際限なく利用なさいませ」
再度視線を将臣へと向け直し、宣されたのはやわらな声での嘆願に見せかけた沙汰。細いながらもその声は上に立つ者としての響きに凛と張り詰めており、将臣は遠く、西の海にて別れてきた血の繋がらぬ“義母”を思い出す。
「刃を握れぬ身には、これが精一杯なのです」
自嘲するように言葉を絞り出し、女は苦悶の表情さえ抜け落ちた知盛の顔に細い十指を滑らせて額にそっと唇を寄せる。
Fin.