夢追い人の見る夢は
八葉は欠くわけにはいかない。八葉を欠くことは、神子の力を削ぐこと。それは神子の神子としての価値を貶めることであり、手土産としての価値が陰ること。だから弁慶はそんな愚は犯さない。
「どういった形で俺を利用できるのか、あの男に知らしめたのは俺自身の行動だ。今さら、何をどう言い繕う気もないさ」
危険を承知で自分達を迎えてくれる平泉に少しでも恩を売るために、弁慶はあらゆる手段を尽くすだろう。その在り様を、知盛はただ純粋に把握しているにすぎない。
こうして手に取るように相手の思惑が読めるということは、自分にも似た側面があるということ。嫌悪感がふつふつと沸くのは、己自身への苛立ちの裏返し。
ゆえに知盛は何も言わない。大いに利用されてやろうと、腹をくくっている。
目的が達されるのなら、構わない。誰に何を思われようが、気にすることはない。あの男の思惑が達された時に、己の思惑も達されることは理解している。
残された八葉を欠くことなく、神子を無事に平泉に届けること。それはすなわち、将臣の身が無事に平泉に匿われること。その目的のためになら、多少の矛盾や理不尽など飲み下せるだけの覚悟を、とうに腹に据えているのだ。
とはいえ、隠し通す気でいたことを一端とはいえ将臣に悟られていたのは、知盛にとって大いに不覚であった。再開された道程においては過ぎるほど慎重に表情と気配とを取り繕い、なにげない気だるさを装って足を運ぶ。
最も理想的なのは、将臣や敦盛が言いさしたように、怨霊を鎮める役回りを下りることだ。だが、今更降りることができないのは自明であり、次善の策も、まあ、ないわけではない。
その日は雨が降る気配もなく、仮の宿としたのは木々の合間にぽっかりと生まれている空き地だった。見張り役はもちろん置くが、それぞれがそれぞれに、好きなように陣取って休息を取る。北陸道に入った頃から、日が暮れて場所が定まれば野営に入り、日が完全に昇った時点で出発するというのが一行の暗黙の了解。それまでは、一行から多少距離を置いて一人の気ままな時間を持ったとしても咎められないのが、無言の気遣いでもあった。
その晩、夜明け前の最後の見張りは銀だった。瞼を伏せて身じろぎもせず、ただ木の幹に背を預けて眠っているようにも見えるが、神経を張り詰めさせているのがわかる。特に気を使うでもなく目の前を通り過ぎながら、まだ眠っている神子らを起こすことのないよう低めた声で「水を使ってくる」とだけ言い置けば、無言の見送りが背に向けられる。
単衣一枚など、刺すように冷たい水から肌を守るにはあまりにも無力な鎧にすぎない。むしろ、水気を含んで纏わりつく分、素肌であるよりも性質が悪いか。
野営に入る前に周囲を見回った際、目星をつけておいた川に身を浸して、知盛はそっと呼吸を整えた。
埒も明かないことがつらつらと脳裏をよぎるが、形式は形式であり、形骸でない以上はそれなりに意味があるのだと知っている。
空はまだ暗いが、夜の気配はもう限りなく薄い。しんと張りつめる一日の中で最も清浄な空気を深く吸い込み、内も外も、洗い清めるように意識を巡らせる。
禊は“水漱ぎ”にて“身削ぎ”。そして“霊注ぎ”だ。
削いで殺いで、研ぎ澄ませる。それは戦乱の只中で気を高ぶらせる行為にも似ていると知盛は思う。あるいは、その行為こそが禊に似ているのか。
穢れを落とす行為を穢れの粋を集めたとも称せるだろう戦場での在り方と似ているなどと言えば神職どもはうるさく非難の声を上げるだろう。だが、あいにく知盛は己が信心に乏しいことを自覚しすぎているし、双方を肌をもって知っているのだと開き直れるほどには図太いつもりもある。戦乱を切り抜けてきた過去も、陰陽術まがいの呪法を操る現在も、紛れなく知盛自身のものなのだ。誰に何を言われようと、至った直観を覆すつもりはないし、義理もない。
と、待ちわびていた刹那の到来を悟って、知盛は緩慢に動かしていた思考回路から瞬時に意識を引き剥がした。雑念をすべて斬り伏せて、世界の目覚めにあわせて身の内に凝る余計なものを、極力洗い流すことに専念する。
もっとも、この程度で流しきれるほど、身の内に溜めこんだものは軽微でもなければ単純でもない。しかし、一日の中にたった一度だけ、いくつか呼吸を繰り返す程度でしかないこの貴重な時間こそが今の自分を生かす最後の命綱だということは、過たず理解しているつもりだった。
わずかずつとはいえ、こうして毎日のように洗い流しているからこそ意識を保っていられる。そして思う。この果てのない闇のような凝りを抱えて蘇るのなら、なるほど怨霊が理性の箍など保てずに猛り狂うのは無理からぬことと。それでもなおと一門を思って一門のために牙を剥いてくれたモノ達に、自分達はどれほど慕われていたのかと。
怨霊と化すことを、そうして返すことを、還ってしまうことを決して正しいとは思えない。容認してはならないと思う。それは今も変わらない。変えてはならないとも戒めている。けれど、同じほどに否定しきれなかった慈しみも同情も、感謝も、敬意も。
何もかも、留められないのだ。今更のように。
夜と朝とが混じり合う刹那を越えて、世界に薄明かりが満ちるのと同時に、森の中からは生あるあらゆるモノの息吹がじわりと立ち上る。
余韻に浸るようなことはせず、ざぶざぶと水をかきわけて岸に上がり、口の中で短く呪言を転がせば風が舞ってあっというまに全身から水気が吹き飛んだ。手近な木の枝に無造作に引っ掛けておいた狩衣を纏ってしまえば、繕うべき仮面にもはや綻びなど見せはしない。そういえば、今回は覗き見ている気配もなかったか。
「随分と、信用されたものだ」
見られたいとも思わないし、見られて困るものでもない。だが、確認せずともと見なされているのは、気楽なような、面白くないような。なんとも言い難い気分になった己に失笑し、北の天を仰ぐ。
ようやく、さほど遠からぬと言えるだけの距離まで辿り着いたのだ。叶うならば、手を届かせたい。将臣を送り届けねばという義務感と並んで今の自分を支える願いを内心になぞり、知盛はそっと拳を握る。
夢を渡ってこないのは、信頼されているからではなくきっと渡るだけの余力がないからだろう、あの娘の許に。
Fin.