朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 山道は狭く険しい。だがそれ以上に一行の行く手を阻むのは、この世に在らざるモノどもだった。
 あるいは怨霊。あるいは物の怪。積もり、淀み、凝縮された負の想念によって、倶利伽羅峠は魔窟へと変えられたのだろう。次々と襲いくる異形を相手に、足並みは乱されるばかり。ただでさえ、淀んだ空気の中を進むのは必要以上の労力を強いるというのに、神子達はそうして変じてしまったモノ、変じさせてしまったモノの思いに触れてしまうのだ。
 山道を進むごとに気配は淀み、その気配に引きずられるようにして神子達は憔悴する。彼女らの憔悴は宝玉を通じて八葉に伝播し、この世ならざるモノどもをいっそう引き寄せる。
 悪循環の極みだと、わかってはいても断ち切れない。逃れる術はなく、立ち向かえば立ち向かうほどに消耗する。そうと知っていても、あがくしかない。怨霊達から身を隠すための遁甲術を使えたのは、今はいない天の朱雀と地の白虎だけなのだ。
 そして知盛にとって、そんな一行の事情など、歯牙にかける義理もない。もう何度目かもわからない怨霊との対峙において、率先して前線に立ちながらも封印に必要なだけの陽気を練り上げられない望美に、慌てて八葉達が援護に回る。だが、それはしょせん時間稼ぎにすぎない。


 どけ、と。ついに零れ落ちた声が実にわかりやすい不機嫌さに塗り固められているのは、知盛自身としても抑えようのないものだった。声に滲ませこそしなかったものの、踏み出した足先にさえ満ちるのは憐憫。こちらはもちろん、意図してきちんと抑えこんだ情想だ。
 憐憫は、ただその境遇やらに胸を痛めてというものではない。強いて言うなれば、蔑みがあまり余って溢れ出した衝動。もっとも、現状に至る発端を察することができればこそ、蔑みを直截的にぶつけるには、それこそ同情心が過ぎるとも知っていた。
 それでも、思うことはやめられない。
 どうせ、誰もが理不尽なきっかけにけつまずいて人生を歩んでいるのだ。ならばある程度は諦めて、その上であがきにあがいて前に進むべきだというのが知盛の信条。
 名を負ったのならまっとうせねばならない。投げ出すなら完膚なきまでに切り刻め。力を自覚したなら、磨くも殺すも自由にすればいい。ただし、見せつけたならば頼られることに責を負う必要性が生じる。
 その規模を読み誤ろうがなんだろうが、最後の最後まで、幻想を幻想と知らしめてはならない。まして、力を見せつけたがゆえに名を負い、責を負い、それらを自覚して利用しておいて、その力こそが必要とされる局面で役に立たないなど。
 そんな無様さは、知盛の価値観の限度を大きく逸脱している。


 完璧であれと言っているわけではない。ただ、それなりにできることがあっただろうと言いたいだけだ。
 厳しい道程であることはわかっている。たとえ戦場に立っていたとはいえ、しょせんは女の身。男に比べて繊弱であることは致し方なし。なればそれを踏まえて振る舞うべきであり、だからこそ、それを怠るのは愚の骨頂でしかない。
 挙動に気遣いを込められなかったのは不可抗力だった。無造作に掴んで背後に放った薄い肩が目敏い薬師にすかさず受け止められたところまでを視界の隅で一応確認したのが、知盛なりのせめてもの情け。そしてその信条ゆえにどうにもならなくなるまで使うつもりもなければ、その局面に立ったとしても彼らの目に曝すつもりなどなかった手の内を、明かす。


 不機嫌極まりない声を発したばかりの男のものとは思えない、気のないようでいて爪の先にまで優美さと冷厳さの詰まった、息を呑むほどの麗しい所作だった。ゆらりと持ち上げられた腕がひどく静かに前方へと差し伸べられるのを、弁慶はごく冷徹に観察する。
「お前達、俺を誰だと心得る」
 それは呪言でさえなく、印でさえない。けれど単なる言葉と動作という枠を置き去りにした、絶対的な力の具現。
「膝を折るべき相手さえわからぬ、不義の者というのであらば、調伏するぞ」
 伸べられた指先に圧倒されたように、怨霊達がその身動きを止める。いや、それだけでは終わらない。宣された言葉に従うように、次々に身を沈めていくのだ。
 だが、それは恭順にしてはあまりにも圧倒的だった。満ちる空気が重い。まるで、魂ごと押さえつけて存在のすべてをねじ伏せられているように。
「もう、終わった。……その無念は、引き受けようゆえ」
 ゆけ。解き放たれた声はごく小さく、言葉はごくやわらかいのに、地を揺るがすほどの力の渦が天へと逆巻く。ゆったりと宙を泳いだ指先が、此の岸と彼の岸の境を断じるようで。
 突風と轟音と、闇と光とをないまぜにして噴き上がる力が、怨霊達を呑み込み、いずこへかと散らしていく。そして最後に場に残っていたのは、ただ一人の絶対的な支配者の背中だけだった。


 思いがけない伏兵の思いがけない能力に誰もが唖然と目を見開く中、呆れに染まった視線がちらと流され、溜め息がひとつ。
「呆けている暇が、あるのか?」
 告げられたのは、実に現実的でまっとうな指摘だった。峠にわだかまり、今なお色濃く渦巻き続ける怨念と陰気とは誰の目にも明らか。あまりぐずぐずしていては、次なる怨霊にすぐにまた囲まれてしまうだろう。
 けれど、動けない。見知らぬ力、与り知らぬ力。しかもあまりに強大なそれを目の当たりにすれば、人は恐怖に身がすくむ。そういうものだ。そうと知っているから、知盛は己に向かって突き刺さる不審と惑乱の視線を、何とも思わない。
「今の、何?」
 とはいえ、放置したままでは一行は歩き出せないだろうし、彼らが動かねば将臣も動かない。つまるところ知盛も足止めを喰うという結論しか導き出せず、震えながらもなんとか紡ぎ出された白龍の神子の問いには、もったいなどつけずに応じてやる。
「己が兵を守れもせずに、何が将か」
 返された独り言にも似た呟きは端的で抽象的で、わかりにくい。けれど、偽りは何もないから、察することも不可能ではない。
「なるほど。怨霊を使役する平家の将たるもの、怨霊を抑える術を知っているのは当然、ということですね」
 すぐさま諒解したように、顎を引くのは望美を背後から支えていた弁慶だ。


 確認を含めてだろう言葉を投げ返し、鳶色の視線はじっと知盛の反応を観察している。そして、その鋭い眼光さえもまるで気にした様子はなく、知盛はあっさりと肩を竦めて将臣の隣へと戻る。先陣を切るつもりなど、微塵もない。
「捌ききれぬ力は、身を滅ぼす毒でしかなかろう」
「将臣くんは知らなかったようですが?」
「将がでしゃばりすぎては、侍大将達に立つ瀬がない」
「ええ、わかりました。では、そういうことにしておきます」
 くすりとこぼされた笑みは意味ありげだったが、知盛は不愉快そうに一瞥するのみで何も言わないし、引き合いに出された将臣はいまだ驚愕から抜け出すことができない。
「ですが、助かりました。陰陽術に心得のある方がいらっしゃれば、この先の道程も実に心強い」
 停滞してしまった空気を打ち払うように明るく言い、弁慶は先へ進もうと一行を促す。その言はもっともであり、疲弊が募ってあまり無茶をさせられない黒白の龍の神子の力を温存させられるという事実に、白龍などは無邪気に「良かった」と笑っている。
 そう、その通り。一行には他に、陰陽術に明るいものは存在しないのだ。ゆえに誰もが弁慶の言葉を素直に受け取った。その裏で取り交わされたごく刹那の、知盛の忌々しげな視線と弁慶の陰を含んだ視線の交錯の意味になど、たとえ気づけはしても、言及できるものなどいなかったのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。