夢追い人の見る夢は
もっとも、他に道はない。では他にどこになら逃げ込める。どこに行ける。答えは誰もがわかっている。九郎が実際に辿り着けようが途中で力尽きようが、遠からず頼朝は平泉に矛先を向けるだろう。それこそは近未来への確信。
もうすべては始まってしまっている。
言いがかりのための下地は、九郎がまだ遮那王と名乗っていた頃に既に整っている。疑わしきは罰し、そして滅するのが頼朝のやり方なのだということは先般の西海で明らかであり、あの船にて景時が筋書きを読みあげてくれた。
謀反人、大罪人の九郎義経が逃亡しているという事実と、その九郎を幼少期に匿ったという過去。この二つが揃っていれば、後はそれなりの時間さえおけば鎌倉の言い分は整う。つまり、大罪人を匿っている平泉が引き渡し要求に応じないため、実力行使に出るのだと。
ゆえに九郎の行き先は平泉以外にはありえない。なんとしても無事に、少なくとも首検分ができる状態で“九郎義経”を平泉に届けねばならない。
「俺も、それが良いと思う。皆、異論はないか?」
視線を持ち上げた九郎がぐるりと見回せば、それぞれに覚悟を秘めた眼差しが返される。肯定の意思表示は全員分ではなかったが、反論もなかった。ならばもう、立ち止まる理由はない。
「では、行こう」
生き抜きたければ行かざるをえない。望美や譲に対する責任感があるから行かざるをえない。受け入れると差し伸べてもらった手に感謝を伝えるためにも。かつてのよしみによって不当な侵略を受けるだろう“故郷”に、何かしらの恩を返すためにも。
銀の案内は、実に的確であり意外に大胆なものだった。山を抜けて伊勢路を踏み、参詣を装って可能な限り街道を使ってから横道に逸れはじめたのだ。
「意外に早く伊勢を抜けられましたね」
「神子様方がご健脚であられますので、進みが早かったのだと」
近江を抜けるまでは京の間近を通るだけありさすがに昼は動けなかったが、代わりに極力平地を進むことで体力の消耗を最小限に抑える。そして倶利伽羅へ辿り着いてしまえば、北陸道まではもう一息。後はひたすらに進むのみである。
「この調子でしたら、秋の深まる前に越後を抜けられましょう」
これまでに追手と遭遇しなかったわけではないが、銀に出会った時のような大群はいない。切り伏せて進むことにさほどの難はなく、たとえ怨霊と遭遇しようとも、一行には黒白の龍の神子がいる。
今宵の宿にと求めたのは、山すそにある小さなお堂。比較的新しい造りであることから、建立の目的はなんとなく知れる。これから一行が越えようとしている峠には、地獄と名のつく場所がある。
どれほど望美と朔が世の一般女性に比べて健脚だろうと、男女の差異は覆せない。さすがに見張りに立たせるようなことはせず、その分しっかり休んで翌日に備えるようにとは、当人達の遠慮を全力で説き伏せての決定項だった。
ただでさえ緊張感に張り詰めてばかりの道中に、彼女らが必要以上に体力と気力を消耗しているのは明白。だが、それでは困る。特に、これから幾日かの間は絶対的に、彼女らの神に与えられた力こそが必要となるだろうゆえに。
建物内は二人の神子に譲り、軒下で暖をとりながら小声で銀と語り合っていた弁慶は、ふと表情を削ぎ落として敦盛を呼ぶ。
「君は、ここには来ていましたか?」
実に曖昧な問いかけであったが、その意図するところを読みとれない敦盛ではない。悲しげに眉根を寄せ、わずかに逡巡してからちらと見張り役の影に視線を流し、それからゆっくりと言葉を選ぶ。
「私は、参戦しなかったが」
逆説の言葉に続くはずだった単語は、誰もがなんとなく読みとれる。今夜、最初の見張りは将臣と知盛の二人。お堂から少し離れた場所でやはり小さく火を焚きながら、適度に距離を置いて木の根元で腰を下ろしている様子が、夜闇に沈んでいる。
「まさに地獄だったと、聞いている」
そして敦盛の耳には、風の音でも獣の声でもない、音なき叫びが届いている。遠く、近く。低く、高く。重なって、渦巻いて、もがき続ける苦悶の声。闇よりもなお深く、進まんとする先でわだかまっている昏さが、透けて見える。
月の位置から刻限を読んで見張りを交代し、仮眠をとって一行は夜を明かす。とはいえ、紛いなりにも弁慶とて法師の端くれなのだ。一帯に漂う重苦しい気配に、ただでさえ休まらない神経がぴりぴりと刺激され続けて眠れない。休まねばならないのに、休めない。
本当に気休め程度でしかないまどろみの向こうで、微かながらも人の動く気配がした。薄く瞼を持ち上げれば、敦盛とリズヴァーンに交代を告げられたらしい将臣と知盛が、ゆっくりと近づいてくる。
気取られないよう注意して様子を探る弁慶の視界の中央で、将臣が思い詰めた表情で山を振り返った。見つめる先は、きっと弁慶が噂でしか聞いたことのない過去。彼は、ここが地獄であった瞬間を知っている。そしてそれゆえにきっと、この先を進む一行にとっての脅威を正しく予感し、誰よりもそれを悲しんでいるだろう。握りしめられた拳が小刻みに震えているのが、月明かりに暴かれている。
将臣より一歩先んじた場所で立ち止まり、同じく背後を振り仰ぐ知盛の姿は、対照的に実に静かだった。何を嘆く様子もなく、何を思うそぶりもなく。木々を通じて山の頂を見やり、空を仰いで無感動にそこに佇むだけ。ただ、そうして一旦天まで持ち上げられた視点が地上へと引き戻されることによって、ほんのわずかに色味を帯びる。
「……呼ぶなよ」
「わかってる」
溜め息交じりに、憐れむように。紡がれたのは忠告。返されたのは覚悟。震える声が、必死に虚勢を張って。
「嘆くならば、誇れ。憐れむならば、讃えろ。惜しむならば、敬え」
まるで呪をそらんじるようにして言葉を紡ぐごとに、将臣の声は落ち着きを取り戻し、ただ純粋な悲しみに満ちていく。
「悼むならば、断ち切れ」
「わかっているなら、いいのだが」
低い声が淡々と応じ、止まっていた足が音もなく持ち上げられる。
「呼ばずとも、魅かれるものは多かろう……必要以上に、乱してやるな」
叶うなら、眠らせてやれ。囁くようにそう言い置いてゆるゆると歩きはじめた知盛を、わずかに遅れて将臣が追う。すかさず瞼を下ろしても、二人が纏う悲しみに張り詰めた緊張が、びりびりと弁慶の肌を刺す。
厳しい峠越えになる。その予感がいかに甘かったのかを、まだ実感することはできていない。
Fin.