朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 そもそも、奥州を頼って鎌倉から逃げるというこの道行きは、奥州藤原氏が九郎を匿うだけの覚悟があるという前提によって成り立っている。その総領が利用されて、あるいは総領自らが手を降しての罠だというのなら、青年を疑って自力で辿り着いたとしても、結果は同じこと。決して不安がないわけではないだろうに、そう言って古き友への信をみせる九郎に、一行の中で異を唱えるものはない。
 さすがに何があるかわからないからと交代で見張りを立て、疲労度合の深い黒白の神子を中心に束の間の休息を取りながら、一行は銀髪の青年の戻りを待った。
「ああ、戻ったか」
「大変遅くなりまして、申し訳ございません」
「いや、信じた甲斐があったというものだ」
 夜明けまでには、という前置きからはいささか遅れるものの、日が完全に昇りきるわずか手前にひっそりと戻ってきた青年を出迎えたのは、ちょうど見張りに立っていた九郎と将臣である。羽織った外套はそのまま、まず二人の面前まで歩み寄って膝を折ってから、青年は頭を沈める。
「だいぶ粘られましたが、諦めたようです。間諜は残っておりましょうが、あらかた山を下りたことは確認してまいりました」
「たとえここで見失ったとしても、次の検問を厚くすれば捕まえられる、とでも思われているのでしょうね」
 時間がかかったことへの直接的な言い訳はなく、しかしその原因となったろう偵察結果を、嗤いながら受け取るのは洞窟の奥から顔を出した弁慶だ。


 そのまま九郎の隣まで足を進め、弁慶は小さく息をつく。
「どうやら、君は本当に泰衡殿の遣いのようですね」
「お疑いは晴れましたでしょうか?」
「いくばくか、といったところですが」
 上向けられた視線は、目深にかぶった布地に隠されて決して弁慶を直視しない。それでも、青年が弁慶からの返答に微塵の感慨も抱いていないことは明らかだった。
「では、この先は?」
 続けて放たれた問いかけは、晴れぬ嫌疑に怯えるでもなく、顔色をうかがうでもなく。自己の判断から乖離した在り方は、書状にあった郎党という言葉を実に理想的に体現している。
 奇妙な緊張感だった。あるいは鎌をかける意味合いも兼ねての嫌味な物言いだったというのに、無色の反応を示されては肩透かしもいいところである。なるべく早い段階で青年の正体の裏付けを重ね、信じるに足るか否か、もっとしっかり判断したいのに、これでは疑えば疑うだけ深みにはまってしまうことが強く予感される。
 無色の反応は、すなわち氷に反射する光のように。疑えば信じられなくなる。信じれば、疑えなくなる。
 瞳を細め、眼光を鋭く尖らせた弁慶の気配に、そして九郎が気づかないはずはなかった。気づき、その上で彼はもう決めたのだろう。
「奥州まで、案内を頼みたい」
 一語ずつ噛み締めるように伝えられた要請に、青年はもう一度頭を沈め直して「そのための我が身にございます」とうそぶいた。


 青年に対する一行の見解がまとめられたところで、ようやく洞窟内にも朝が訪れる。
「リズ先生、敦盛くん。ありがとうございます。もう大丈夫ですので」
 先ほどまでの刺々しさが嘘のように、穏やかさと諦めを混ぜ合わせたような声で弁慶が肩越しに振り返れば、岩陰から天地の玄武が足を踏み出す。
「選んだのか」
「僕は、九郎の行く道を選ぶだけです」
 短い問答を挟み、入れ替わりに弁慶は奥で待っているだろう残りの面々に朝を告げに行く。
「先生、俺は、」
 その背中をなんとも言い難い表情で見送ってから、九郎はゆっくりとリズヴァーンに向きなおった。
「俺は、少しは前に進めているでしょうか?」
 幼子のような頼りなさに揺れる視線を上向け、惑いの滲む声で九郎は問うた。
「泰衡殿を信じると、そう見定めた俺の目は、曇ってはいないでしょうか?」
 信じると決め、信じたがゆえに進み、進んだ先で膝が折れた。その過去が生々しく胸をえぐっていればこそ、九郎は迷うのだろう。察することしかできないものの、弱気になる根拠は正しく見抜けていると将臣は自負している。そして、今の九郎に言葉をかけることが許されるのは、彼が絶対的な信頼を寄せて師と仰ぐ地の玄武だけであることも、また。


「お前は、選ぶこと、選んだことを、恐れているのか?」
 返されたのは問いかけ。しかし、あるいは糾弾にも似た言葉だった。ひゅっと喉を鳴らして息を呑んだ九郎の瞳が、苦しげに歪む。
「……はい」
 そして、源九郎義経という人間は、どこまでも実直な男だった。苦しげに、悔しげに。瞳を歪め、歯を食いしばり、拳を握って肩を震わせても、偽りだけは返せない。振り絞るように掠れた肯定を紡ぎ、それを聞いた瞬間の師を直視することはできないとばかりに俯けられた後頭部に、大きくてあたたかな掌が乗せられる。
「ならば、お前は立ち止まっていないということだ」
 ついで降り注ぐ穏やかな声に、弾かれたように跳ね上げられたはしばみ色の双眸が揺れる。
「選ぶこと、選んだことを恐れるということは、その重みを知るということ。苦悩は、自覚と自責によってもたらされるもの」
 リズヴァーンの言葉は、いつも秘められた深い思いを伴っている。単語をただ並べただけのものではない。その向こうには、リズヴァーン自身が負い、重ね、刻んできた何かが、恐るべき密度で詰め込まれているのだろう。ゆえにその言葉は謎めいていて、深く鋭い教訓として聞くものの鼓膜を切り裂く。
「これまでのお前の選択は、潔かった。無論、潔くあることは必要であり、得難い。だが、時に選択は苦悩の内から無理矢理に引きずり出され、迷いを残し、結末が見えるまで後悔への恐れにその身を縛る」
 頭に置かれていた手は、いつしか九郎の肩へと移動していた。そこで一旦口を噤み、何かを追いかけるように瞑目してから、リズヴァーンは手に力を篭めて、告げる。
 お前の恐れは、それを理解したがゆえの痛みなのだ、と。


 どこか呆然とした表情でリズヴァーンの言葉を受け入れた九郎は、しばしの間を置いてから眉間に深く皺を刻む。
「ゆえ、貫きなさい。苦しくとも、最後まで。己で定め、覚悟したのならそれこそがお前の道。定めた道は、引き返さず往くことしかできないのだ、九郎」
 苦しげに眉根を引き絞り、けれど九郎はどこか嬉しそうな声で小さく「はい」といらえる。そんな師弟を見やり、恐らくは息を殺してこちらを見やっているのだろう洞窟の中へ視線を投げ、感極まった様子の敦盛を流し見。将臣はもう一度、先と変わらぬ姿勢でひざまずいたままの青年を視界の隅に映した。
 幾度か目を離すこともあったが、戻ってきてからは基本的にずっと彼の様子を観察していたのだが、やはりその存在は無色。九郎や弁慶が抱いているのだろう懸念とは種類が異なるだろうと自覚している違和感を胸に殺しながら、しかしそれを言葉に定義できないため、まだ何を言うこともできない。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。