夢追い人の見る夢は
幸いにして、熊野の間近にはさほどの兵を置いていなかったのだろう。吉野までを順当に切り抜けたところで、しかし事はそうそう都合の良いようには運ばない。せっかく検問を誤魔化し、念を入れて麓の子供に聞いて山に分け入ったというのに、木々の合間にちらつくのは不穏な明かり。
「あれは……」
「たくさんいるね。人の気配だ」
真っ先に見つけたのは敦盛であり、遠慮がちながらも確かに紡がれた可能性を、白龍が裏付ける。
「見つかったってことか」
「早かったのか、遅かったのか」
緊張に声を多少張り詰めながらも、どこかに笑みを孕んで呟く将臣に、リズヴァーンが感情の読めない平淡な声を重ねる。首を巡らせれば、同じ光は前にも後ろにも。まさに、退くに退けない状況というものである。
「どうする? どっちかだけなら、請け負うぜ?」
「どちらかだけだとしても、無謀ですよ」
視界が悪いため人数は数えられないが、片側ならばと将臣が不敵に問う。しかし、弁慶の返答はごく静か。
「前方を突破して、二手か三手に別れましょう」
最悪、九郎と望美さえ逃せれば、との本音はさすがに胸の内に沈めて、けれど弁慶の思惑など透かし見ているのだろう。暗がりでも明白なほど深く眉間に皺を寄せた九郎が「おい」と低く呼びかけるのと、神子と八葉がそれぞれに覚悟を決めた、まさにその時。
「――こちらに」
下草をかきわける音さえささやかに、横手の藪からかけられたのは新たな声。反射的に全員が構えをとりながら振り返った先からは、夜闇に紛れるためだろうか、暗色の外套をまとった人影が足を踏み出す。
じり、と刃を持つ全員が刃先を持ち上げるが、当の相手は何をしようともしない。ただ、ひざまずきながらすっと持ち上げられた腕が顔をすっぽり覆い隠していた布地を取り去れば、なるほど夜闇にあって悪目立ちしないようにと、彼がそんなものを纏っていた理由が明らかになる。
「源九郎義経様のご一行にございますね」
問う声は確信に満ち、上向けられた淡紫の透明な視線は数多の刃に怯むことなく、過たず九郎を見据える。
「私は、奥州より参りましたもの。どうぞ、お急ぎください。先も後ろも、源氏の兵にて道を塞がれております」
驚愕と逡巡は同じほど深く、しかし足踏みをしている時間がないことも確かだった。誰もの目に不審が宿り、同時に打算が走る。
「逃れられますか?」
「ひとまず、身を隠す先は確保してございます」
「そうですか。……ならば、行きましょう」
駆け引きに満ちた異様な沈黙を、そして切り裂いたのは弁慶の決断。反射的に何かしらの反論が口をつきそうになった一行をぐるりと見渡し、異論を許さない音調で口早に告げる。
「とにかく、今はこの場を凌ぐことが先決です。賭けてみる価値は、あると思います」
それとも、他に何か代案があるのか、と。言葉にされなかった問いかけに、答える声はない。
「案内をお願いします」
「はい。どうぞこちらへ」
退くも進むもままならないが、もしこれが罠だとしたら、もはや逃れようはない。踵を返した夜目にも鮮やかな銀髪の青年を追う一行が得物を握る手には、これまでになく強い力が篭められている。
先ほどまでとは違う緊迫感に神経をとがらせながら、一行が導かれたのは草木に入り口を隠された、川べりの洞窟だった。
「どうぞ、しばしこちらに。私は外の様子をうかがってまいります」
全員が無事に入り口をくぐったことを確認し、青年は改めて外套を目深に被りなおした。
「何事かあればすぐに。何事もなくとも、夜明けまでには戻ります」
そして今度は懐を探り、間近から睨むようにして青年を警戒している弁慶に何やらを手渡す。
「こちらは、我が主、藤原泰衡様より九郎様、弁慶様への書状にございます。詳細をご説明する時間も惜しまれますので、今はどうぞ、これにて私の言葉をご詮議ください」
では、と承諾さえ待たずに入り口を出ていく足取りは、言葉のとおりどこか急いている。確かに、悠長に話し合いを持っている時間は許されていない。そのことを改めて見せつけられ、暗い洞窟内にはさらに重い空気が張り詰める。
「彼の言うとおりですね」
あっという間に消えた気配をさらに追いかけるようなそぶりを見せてから、ふっと息を吐いたのもやはり弁慶だった。そのまま視線を巡らせ、厳しい表情と困惑を混ぜ合わせている白龍に焦点を結ぶ。
「白龍、この近くに、人の気配はありますか?」
問いは唐突だったが、さすがにこの道程で白龍も己に期待される役割を嫌というほど察しきったのだろう。わずかに目を伏せてから、ふるりと首を横に振る。
「ううん。誰もいないよ。さっきの集団は、むしろ遠い」
「ここは、道を外れて、さらに引き返したあたりでしょうからね」
見失い、探すとすれば進行方向をこそ疑うのは常道。小さく笑みを刻んでから、弁慶は「ありがとうございます」と律儀に礼を紡ぐ。
疑われることを前提として青年が残した書状をいまだ開こうとしない弁慶をちらと見やり、次に口を開いたのは将臣だった。
「で? どうするんだ? あいつのことを信用してここで朝まで待つのか、罠の可能性を考慮してさっさと逃げるのか」
決断は、早い方がいい。飲み込まれた言葉の先など、誰もが嫌というほど理解している。
「将臣くんは、どう思います?」
「その書状次第、ってとこだな」
すかさず切り返された問いにあっさりと応じて、将臣は旅の垢にまみれた一行の中で、場違いなほど洗練された気配を醸し出す書簡を視線で示す。
「俺は、藤原泰衡ってやつのことを知らねぇから何も言えない。けど、それが本物だとしたら、罠にしちゃ手が込み過ぎてる」
「その通りでしょうね」
さらりと受け流して肩をすくめ、そして弁慶は九郎に目線で許可を乞うてから、ようやく手の内の書状を紐解く。
ざっと内容を読み流した後、まず弁慶が浮かべたのは仄かな微笑だった。
「九郎、確認を」
「ああ」
そのまま書簡は九郎の手に渡り、やがて張り詰めていた空気が実にやわらかく解きほぐされる。
「間違いなく、泰衡殿の手蹟だな」
声に滲むのは安堵だろう。懐かしそうに、切なそうに目を細めて、九郎はぐるりと自分を見つめる瞳を見渡す。
「先の男は、奥州藤原氏が総領、藤原泰衡殿の郎党で、銀殿というらしい。京からの街道筋を素直に北上したのでは検問にかかろうからと、案内によこしていただけたそうだ」
「信じるに足るのか?」
「お前の言ではないが、これが罠だとしたら手が込み過ぎているし、なにより奥州が既に俺を見限っているということだ」
自嘲気味に頬を歪め、けれど九郎は何かを振り切るようにして頭を振る。
「ならば俺は、信じたいと思う」
Fin.