朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 荷を最低限に、一行が熊野を発ったのはそろそろ秋の気配が見え隠れする頃のことだった。平地に出るまではとヒノエが烏をつけてくれることになったが、それは山が熊野の領域だからできること。踏み出してしまえば、後は平泉の領域に踏み込めるまで、ひたすらに逃げていくしか道はない。
 壇ノ浦からつき従ってきてくれていたわずかな手勢は、すべて熊野に置き去りにすることにしていた。これ以上、人数を増やしては身動きが取れなくなるというのがひとつ。これ以上、巻き込むつもりがなかったというのがもうひとつ。
 将臣の負っていた還内府という名は消えない過去だ。その中で思い知り、ずっと助けられてきたのは、彼らの忠心。知盛が昏睡状態にあった間は自分達が代役をと言わんばかりの勢いでずっと叱り、諭し、励まし続けてくれた平家の兵達の、自分らへと向けられる恩愛だ。


 こちらもまたいったいどのように工面したのかはわからなかったが、知盛は兵達のために、少ないながらも旅の用意を整えていた。金子と、ありふれた旅装と、保存食。それから、見るものが見れば知盛によるそれとわかるようにしたためた、文と。
 数えるほどとなってしまった彼らは、知盛を仰ぐ郎党だった。壇ノ浦で喪い、平戸で数を欠き、最後の最後まで残ったのは本当にごくわずかであったが、その分、彼らを信じて、すべてを託して他の兵が散っていけるほどに、知盛に誰よりも近い精鋭達。
 決して納得はしていないのだろう。しかし、心酔にも似た忠義を捧げるということは、最終的には知盛に対して絶対的に弱いということなのだ。
「よく、仕えてくれた。その忠心……いや、これまでお前達と共にあれたことを。深く、誇りに思う」
 座の上下はあれど、同じ部屋で同じ高さの床に腰を下ろし、手向けられる言葉に強面の男どもが泣き崩れる様はいっそ圧巻であったが、混ぜ返すことなど思いつきもしない雰囲気であった。別れはしない、必ず共に行くのだと、知盛が登場するまで顔を見合わせてそう確認し合っていたというのに、いざ敬愛する主君から実に珍しい懇願する口調で命じられては、否と言えなかったらしい。


 額を床にこすりつけ、その言葉がどれほど嬉しいか、これまでの日々がどれほど誇らしかったかを嗚咽混じりに必死に捧げて、最後の主命を受け止める。
 山門になど立ってくれるなというのは、彼らからの嘆願だった。名残り惜しくなり、別れづらくなる。ゆえにこれを限りにしてくれと。言われて応じたのは知盛だけで、その対象に自分が含まれなかったのをいいことに、将臣は兵達の見送りに立った。
 みすぼらしいとは言わないが、質素でありふれた旅人の装いで、山を下る寂しげな背中を鼓舞するのはあでやかな笛の音。この奏で方は敦盛のものではないと、将臣にとってさえ明白で。
 緑から黄や紅へと色を変えはじめた山に映える、美しい音色。それに促されるように背筋を伸ばし、装いに見合わぬほどの堂々とした風情で野道を下るのを、見えなくなるまでずっとずっと見送っていた。
 そして、今度は将臣がそうして見送られる番なのだ。


「送ってやれるのは、ここまでだ」
 悪いね、と紡ぐ声が震えていると思ったのは、きっと気のせいではあるまい。切なげに柳眉を寄せて、先頭から振り返っヒノエはた面々に小さく首を傾げてみせた。
「街道筋は、どこも検問が敷かれているって話だよ」
「……景時の、成果のひとつですからね」
 どこか張り詰めた声での念押しに、浅く頷くのは弁慶。鎌倉から遠く西国への情報伝達や物資の輸送のため、それは景時が九郎と行動を共にする一方で地道に進めていた一種の地盤固めである。それらを有効に利用した捜査網への警戒と恐怖心は、恩恵を受けていた源氏勢ならではのものだろう。
「極力、見つからぬようやり過ごすべきだが」
「見つかっちまったら、一人残らず倒して進むしかねぇな」
 あえてなのか、何かを憚ったのか。溜め息交じりの言葉を中途に途切れさせたリズヴァーンを継いで、将臣は獰猛にわらう。
「厳しい道行きになるってことだ」
 そんなことは、誰もがわかっている。しかし改めて覚悟をなぞらねばならないほどに、状況はひっ迫していた。


 名残り惜しげにずっとずっと山門に立っていたヒノエの姿が振り返った向こうに見えなくなると、一行の中に漂う緊迫感は一気に上昇した。九郎と弁慶が先頭を歩き、すぐ後ろに譲と白龍、望美と朔。それから将臣と知盛を挟んで敦盛とリズヴァーンが続く。中盤を歩く譲達も引きずられて神経を張り詰めさせていたが、さすがに状況への危機感は歴戦の兵でもある九郎、弁慶、知盛、リズヴァーンが群を抜いている。
「白龍、申し訳ないのですが」
「うん、わかっているよ」
 先を歩きながら、確認するように振り返った弁慶に、人の姿を模した神はただ静かにいらえた。
「何か、嫌な気配があれば、すぐに言う。それでいいんだよね?」
「ええ。過度に意識していただかなくて結構ですので」
「大丈夫。私も、神子を守りたいんだ」
 隠密の道程なれば、本来は斥候を出して先の安全を確かめながら進むのが道理。しかし、今の自分達にそれだけのゆとりがないことを弁慶は知っている。ただでさえ過剰な追手に探されているのだ。下手に分散するより、いっそ一塊になっておいた方が万一の場合に無難に対処できる。
 状況を読むことができているとは考え難いが、張り詰めた空気はきっと誰よりも感じ取っているのだろう。無垢な笑みの奥に垣間見える冷厳な覚悟を確認し、弁慶は改めて進むべき道を見据える。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。