夢追い人の見る夢は
決して張り上げられているわけではないが、将臣の声はひどくよくとおった。柱やら格子やらの陰に身を潜め、息を詰めて思いがけない対談の行く末を見つめる望美らにとって、それはとてもありがたい。隠すことなく告げられる後悔と決断の礎に、天の青龍の強さを改めて思い、それほどの絆を築き上げた蝶門の一族の結束を、思う。
視界の隅で俯くのが見えた譲には、ちらとだけ視線を流して誰も何も言いはしない。兄に対して厳しい面も見せていたが、ずっとずっと、一人でふらふらするその身を案じていたことを誰もが知っている。
あの海域でようやくすべてが明らかになり、熊野に至って叱っても詰っても、八つ当たりをしても、すべてを甘んじて受け入れるばかりで何の反論もせずにいたその真情に初めて触れられて、感慨が深いのだろう。小刻みに震える肩は、どこか幼くさえある。
「俺は、負けたのだな」
そうして降り積むばかりの沈黙の中に、ようやく響いたのは危ういほどに凪いだ九郎の声。
やはり張り上げられたものでもなければ、誰かに聞かせるためのものでもなかった。くしくも先に将臣が言ったような、独り言を紡ぐような声。けれど、必死に耳をそばだてる誰もの鼓膜に、過たず届いてしまう。
「お前は、欲するものを隠さなかった。何も、何ひとつだ」
自分を拾い、救ってくれた一門を守りたがった。弟と幼馴染を守りたがった。そこには見栄も体裁も何もなく、ただひたすらでがむしゃらな足掻きだけがあった。利用できるものはすべて利用した。幻影であれ、盲信であれ、己の影形でさえすべてを道具にして手段にして、見据えた目標のためにもがき続けたのだろう。
ゆえに打ち立てられたのが“還内府”という幻想。内実は有能な将兵として成長してのけた。それは、対峙していた九郎こそが深く深く思い知っている現実だ。
一方の自分はどうだったろうと、九郎は自嘲交じりに振り返る。
兄に認めてほしくて、必死だった。それは事実だ。その一点において、九郎は決して自分が将臣に引けを取るとは思わない。だが、その内容と経緯において、もしかして自分は何か決定的な過ちを犯したのではないだろうかと、思うのだ。
兄のために戦った。兄の見据える世界の実現のために戦った。果たして、そんな自分の言い分は正しいのだろうか。
「俺は、お前や景時のように、目指すもののため、殉じるもののために己を捧げきることができなかったのだろう」
兄のためと、そう思っていた。だが、それを当の兄に問いただしたことはなかったし、問いただすことなど思いつきもしなかった。ならば、己の行動が実は兄にとって迷惑だったのだと言われても、何を返すこともできない。
兄の見据える世界が、自分の思い描くそれだと信じていた。だが、それを確かめたことはなかった。ならば、よもや自分の思い描く世界とは、兄の思い描くそれとは違ったのだろうか。
九郎にはわからないし、もはや知る術などない。むしろ、違ったからこそこの結末なのだろうと、そう思えて仕方ない。
「だから、俺は負けた……何にも、なれなかった」
ゆるゆると瞼を持ち上げ、無様に震える己のこぶしを視界に納めながら、九郎は低く呟く。
「そして俺は排除されるのだろう。兄上にとって、もはや俺という刃は無用であり、むしろ邪魔でしかなくなったから」
使い捨てられるだけの刃でしか在れなかった。その程度にしか己の存在を打ち立てることができなかった。あの時、御座船で景時の読みあげた罪状はほぼ言いがかりだ。だが、言いがかりをつけて切り捨てることを躊躇われない程度の重みしか、自分は兄の胸に穿つことができなかった。それが紛れもない現実。
戦場が果てて後、鞘に納めようと思ってもらえるか否か。未来を左右した要因は様々にあるだろうが、そのすべてが自分以外に起因しているとはさすがに思わない。冷静になって振り返ってみれば確かに、九郎にだって、思い当たる節はあるのだ。
自省し、自責することは簡単なようでいて実に難しい。それは自傷に他ならない行為だからだ。自責に酔えるのは、その向こうに憐れみを向けられることを期待しているから。確信できるだけの素地に立っているから。そうでないなら、自身のあらに目を向けることがどうして心地良いのか。
責められ、詰られたかった。誰かに突きつけられ、糾弾され、それを渋々ながらも認めることの方がよほどたやすい。そうして罪を自覚するなら、自身の手で抉り出し、直視するよりも自分に対して優しくしていられる。
「俺と共にいて、お前は、傷つかないのか?」
恨みがないとは言わないと、将臣もそう言っていた。九郎もそれは同じで、たとえこの場で多少は心情の整理ができたとしても、昇華するにはまるで足りない。この先、共にあればいつどこで、同じように理不尽な言いがかりを互いに突きつけ合い、傷つけあうか知れたものではない。道を同じくすることは、少なくとも将臣にとって、他の誰よりも辛いことだ。
思うところをある程度吐き出したことによる効果なのか、少なかれ平静を取り戻した声で九郎が問えば、しかし将臣は老成した笑みを浮かべる。
「ここでお前らと別れる方が、傷が深いんだよ」
ひどくずるい、巧妙に混ぜ返す物言いであったが、九郎はそれに対して何を言うこともしなかった。向かい合う紺碧の双眸に、自分と同じ自傷の衝動を見透かしてしまった以上は、もはや何も言えなかったのだ。
Fin.