朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 わかった、とだけいらえれば良かったのかもしれない。心強いだとか、頼むとか、そう伝えられればなお良かったのだろう。だが、いずれも声になどならなかった。むしろ、唇を割るものは何もなかった。
 目の前が真っ赤に染まるような、それは戦場でさえめったに経験しないほどの感情の高まりだった。視界が真っ暗になるような絶望には覚えがあっても、これほどの激情には覚えがない。中途半端に力を溜めていた足先が鋭く床板を打ち鳴らし、体側で握りしめられていたはずの両手は将臣の胸倉を掴みあげる。
 切なげに眉を寄せ、小さく息を呑むのがまた苛立たしい。大きく息を吸い込み、ぎりぎりと唇を噛み締めたまま、九郎は眉間が痛むことに、表情を歪めている己を知る。


 手近な柱に将臣の背を押しつけてその双眸をしばらく睨み据えていた九郎は、一向にまとまらない己の内心に業を煮やし、視線を床へと落とした。
 言いたいことは山のようにあるのに、何ひとつ言葉にならない。わからないのだ。
 詰りたいのだろうか。八つ当たりをしたいのだろうか。それとも、責められたいのだろうか。
「――なぜ」
 そもそも、将臣の身とて己が望んで拘束しているのか、それともくずおれないよう己の身を支えるために縋りついているのか、わからない。
「なぜ、何も言わない」
 ぼろぼろに擦り切れた声で、九郎はきつく目をつむって呻いた。
「俺には、何を言う価値もないと?」
 また、将臣が小さく息を呑む音が聞こえた。既に箍など粉みじんに砕け散っているのだ。その微かな音でさえ、きっかけとしては過ぎるほどに十分である。
「憐れんでいるのか? 侮っているのか!?」
 紡げば紡ぐほど、脈絡のない言葉が語調を強めていく。声が湿り気を帯びていく。なのに顔を上げられない。ああ、違う。こんなことを言いたいわけではない。そう思うあえかな理性の声は、溜めに溜めこんでいた鬱憤に飲み込まれていく。
「馬鹿にするのも、大概にしろッ!!」
 もう目など逸らさないから。盲信などせず、きちんと自分の目で見極めるから。だからどうか、何も隠さず、向き合ってほしいのに。


「言えばいい! 望美や譲がこんな目にあっているのは、俺のせいだ! 俺が軍に引き入れ、戦場へ連れ出した。そのせいで、お前まで巻き込まれていると!!」
 もう終わっているはずだったのに。将臣の戦いは、源氏と平家の諍いがとにもかくにもの決着を見た時点で、終わったのだ。もう戦場に赴く必要はない。堂々と顔を曝して生きることが難しいなら、いずこに潜んでいればいいだけの話。
 それこそ、知盛の乳兄弟たる家長の出身地である伊勢など、うってつけではないか。神宮のあるかの地であれば、まさか南都からあれほど憎まれている平家一門の者が潜んでいるとは思われにくいだろうし、何よりいずこの権力であっても下手な手出しをすることができない。
「あの二人が行かずにすめば、お前とて好き好んでこのような道、選ばなかったのに!」
 そして、誰が共に来てくれただろう。弁慶と、それから、誰が。宇治川を、三草山を、壇ノ浦を。共に戦った兵は、もう誰も残っていない。
 彼らは皆、源氏の兵だ。源氏の名を捨ててまで九郎に従ってくれるものなどいない。当然のことだ。けれど、その事実が重い。では、自分が捨てられなかったものは何だろう。捨てるわけにいかなかったものは。そうして守るべきもの、守れたものは。
 思えば思うほどに声が喉に詰まり、そんな己があまりに情けなくて、九郎はますます全身を震わせる。こんな時になるまで、己が内心に飼い殺していた恐怖に向き合うことはおろか、気づくことさえできていなかっただなどと。


 決して脆弱な力ではないので、胸元を掴まれ、柱に強く背を押しつけられている姿勢は息苦しい。けれど、将臣は何を言うこともできなかった。違うなどと、そのような口先だけの慰めを紡ぐことはできない。かといって、決して九郎が言うことばかりがすべてではないから、そうだと頷くわけにはいかない。何より、もし頷いてくれと乞われたとしても、頷いてしまえばその瞬間、今度こそ九郎が救いようのない絶望に叩き落されることを将臣は静かに予見している。
 俯いたまま、泣き叫ぶように紡がれる断罪の声が痛い。そうして己の心をこれでもかと切り刻んで、本当に、何とまっすぐな男なのだろうか。
 九郎が叫んだ彼にあるという罪は、裏を返せば将臣の罪だ。
 望美と譲が源氏軍に引き入れられたのは、この世界で生きるための交換条件として。むしろ、即座には戦力としてろくに当てにもならない食客を二人も行軍中に抱え込むなど、どれほどのお人好しなのか。たとえそこに怨霊に対抗するための、といういかんともしがたい理由があったとしても、二人がつつがなく過ごすために、九郎が払ってくれただろう苦労と代償は想像しただけでも少なからぬものだ。
 途中で出会えたのだ。どうしてもと思うなら、平家に連れ帰るという選択肢もあった。将臣にはそれが許されていた。そうすればいいと、重衡や経正といったその後を保証できる実権を持った面々に許されていた。
 平家は落ち目だからと、それをしなかったのは将臣の選択。九郎らが源氏軍であることを薄々察しながら、それをしなかったのは将臣の決断。そして、あの海域から無事に陸に上がることができたのは、その選択の向こうでずっと九郎が望美達を庇護し続けたからであり、その中で築かれた絆ゆえ。
 事象には陰陽の両面がある。そうして生き延びる術に繋がった道が、鎌倉の目をかいくぐっての逃亡劇に繋がっていたとして、どうして九郎ばかりを責められるだろう。

Fin.

back --- next

back to 夢追い人の見る夢は index
http://mugetsunoyo.yomibitoshirazu.com/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。