朔夜のうさぎは夢を見る

夢追い人の見る夢は

 苦しいながらもそっと息を吸い、将臣は一度だけ、ゆっくりと瞬いた。
 ああ、指摘はこのことだったのかと、いつもいつだって後から気づく。その場に遭遇して、あの恐るべき慧眼の正しさを思い知る。
 かくまってやるから身を潜めておけと、そう言われて嫌がったのは自分だ。くしくも九郎の言った通り、平家の行く末がある程度固まった今、将臣の関心は主に実弟と幼馴染の行く末に注がれている。
 白龍は、まだ力が満ちないと言っていた。ゆえに世界を渡る扉を開くことはできない。道を繋ぐことはできない。ならば、彼らは行かざるをえないだろう。譲の身だけであればどこへなりと隠すこともできたかもしれない。だが譲は望美と離れることなど決して了承しないだろうし、源氏の神子は、ある意味では将臣の纏う“還内府”以上に名が重く、顔が広く知れ渡っている。しかも、源氏は九郎の率いる軍の象徴的存在として、だ。言い逃れはできない。
 ならば自分も行く。行かねばなるまい。それは確かに純粋な気がかりがゆえでもあったが、同時に贖罪のために。これまで共に歩むことができなかった兄としての、幼馴染としての、八葉としての罪悪感が微塵もなかったかと問われれば、それには否と答えざるをえないのだ。


 お前、では、その旨の合意は得られているのであろうな。問いは静かで、鋭かった。
 逃げるなど、そんなことのできるはずがない。自分だけが安穏と守られるなど、そのようなこと。もう還内府としての己は必要ない。ならば、今度は有川将臣として、なさねばならないことを見誤るわけにはいかない。
 初対面の、しかも自分のような危険極まりない立場の人間をかくまおうと言ってくれた相手を前にしているという恥も外聞も、あったものではなかった。感情の激するままに喚き、怒鳴りつけていた。それが自分の負い目から意識を逸らしたいがゆえの八つ当たりだと、気づいたのはつい先ほどのこと。こうして、九郎に詰られてからのことだ。
 文字通りの呉越同舟。お前はよかろう。平家は源氏に敗北し、滅んだ。だがお前は決定的に勝ち抜いた。お前は己が心を揺らがすほどの喪失には遭遇しておらん。一方の、御曹子殿はいかがか。軍師殿には反対されまい。しかし、御曹子殿は。納得はできずとも、妥協ぐらいはとりつけているのか。
 重ねられる指摘はごくごく静かで、どこまでも理論的。今の将臣のように胸倉を掴まれながら、深紫の双眸はまったく揺らいでいなかった。恐らくは、将臣の行動のすべてを見透かしていたがために。
 理詰めの糾弾に返す言葉のない将臣に、知盛はただ冷静だった。
 往きたい道があるのなら、地固めを怠るな。そう、教えたはずだな。
 続けられたのは、それこそ妥協だ。知盛なりの、実に婉曲的ながらあまりにも懐が深く、与えられることに慣れてなおその真意を疑いたくなるほどの。


 目の前で小刻みに震えている形の良い後頭部に、逡巡を殺せないまま呼びかける。
「なあ、九郎」
 視線を下ろす際、奥の方から気遣わしげに見やってくるいくつもの人影には気づいたが、別に気にはならなかった。これは、いわば通過儀礼だ。還内府と源氏軍総大将。決して相容れるはずのなかった二つの名が同じ道を行くというのなら、一度はどこかで禊が必要だった。それが、たまたま今、この場で行われようとしているだけのこと。
「俺は、何も言わないんじゃない。何も言えない――言う権利が、ないだけだ」
 意を決しての告白は、九郎にとっては予想外の言葉だったのだろうか。びくりと肩と頭が跳ね、ついでに将臣は喉元がさらに締め付けられる。まったくもって苦しい限りだが、力を緩めてくれと、そんな嘆願でさえ紡ぐ権利がないような気がして、細く細く息を吸ってからゆっくりと言葉を選ぶ。
「こっから先は、独り言だ。どう思うかは、お前に任せるよ」
 どうか、と願ってからそっと差し伸べた前置きは、思った以上にずっと弱気で将臣は情けなくなる。けれど、このどうしようもない弱さと迷いで自分という人間が形成されていることから目を逸らさずにいられる程度には、丸ごと自分を受け入れてくれる存在への信頼が深い。


 長く言葉を紡ぐことになるだろう。首を絞める多少は力が弛んだものの、いまだ顔を上げてくれない九郎から視線を引き剥がし、天井を仰いで背後の柱に体重を預けた将臣は、視界を閉ざした。仰のいていた方が、呼吸が楽なのだ。
「確かに、あの二人はお前の配下と見なされていて、だからお前と同じように鎌倉から追われる。けど、それはあいつら自身の決断でもあるだろ?」
 あいつらが、お前を詰ったか? 責めたか? 恨んだか?
 その問いに、きっと九郎は答えを返さない。現実を、こんな時ばかりは歪めて捉えたがるのだ。器用だとか不器用だとか、そういう理由からではなく、ただ実直な性情ゆえに。
「譲も望美も、自分で考えて、自分で決めた。俺もそうした。もちろん、譲や望美のことも含んでいろいろ考えたけどな。だからって、理由をあいつらに押し付ける気はねぇよ」
 だからこの道行きを自分が選んだのは、決してそこから翻って九郎のせいではないのだと。さて、この言葉だけで汲み取ってはもらえないだろうか。


 ずるりと。九郎の指先が将臣の胸元を滑り落ち、膝が崩れて床に落ちる。押しつける力がなくなったことにつられて目を開き、視線を落とせば、何かに耐えるように握りしめた拳を震わせ、呼吸の気配さえ殺している天地の対の丸められた背中。将臣はなんだか、とてつもなく九郎が不憫に思えた。そうして同情することこそが相手への屈辱になると、わかってはいるのに。
「譲と望美を守るのを全部お前に押し付けて、俺は、俺の好きなようにしか動いていなかった」
 無論、好きなように動いたのはそれが楽だったからではない。譲と望美を軽んじたわけではない。苦悩がなかったとも言わない。けれど、結局のところ将臣は、誰に比べてもしがらみにはろくに縛られず、いつだって自分の考えで道を選んでいられた。その強運への自覚さえ持たずにいられるほどの環境にあれた。
「俺は、とんでもない隠し事をしていたことを叱られたし、詰られた。けど、あいつらはお前を責めるようなこと、何一つ言ってない。今までも、今も」
 それこそが自分の奔放さの代償であり、九郎の誠実さの結実だ。そうとわからないほど鈍くなどないだろうに、そうと決して驕らない謙虚さがある。ああ、本当に不器用な奴だ、と。どこかで憶えのある感慨が胸をじんわりと温めて、ぎこちないながらも頬が弛む。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。