切ない優しさ
違う、違うと己の心に言い聞かせ、それでも惹かれる想いは止められない。傍にいたいという衝動は、異なれども同じ彼を前にすれば、歯止めが利かないほどに、際限を知らずに溢れ出してくる。それはもはやどうしようもない、彼という魂への希求だった。彼が彼であることを見失わない限り、はどんな彼にでも惹かれてしまう。それは、己が己であるが故の逃れようのない呪縛であるようにさえ思えた。
だから、困るのだ。彼がこれ以上自分の存在に不信を覚え、お前など要らないと言い放たれれば、それはそれで心が崩壊するだろうと確信している。そんな事態に陥りかねないこの不可思議な経歴を彼に知られうる彼女という要素は、にとっては本当に、何よりも警戒すべき存在。
「私は、春日望美です。将臣くんの幼馴染で、今は白龍の神子っていうのをやっています」
「伝説に聞く白龍の神子とは、まことの存在だったのですね」
自分でも白々しいと思いつつ、当たり障りのない言葉を返しては「では、神子様とお呼び申し上げても?」と問いかける。
先に名乗りをあげたときと同じく複雑な表情を示した望美は、けれど何も言おうとはしなかった。ほんの少しだけ困ったような、照れたような色を刷き、小さく頷いてから逆に問い返してくる。
「じゃあ、私は胡蝶さんって呼んでいいですか?」
「どうぞ、御心のままに」
「あの、そんなにがちがちにならないでもらえませんか? むずがゆいっていうか、違和感があって」
「さようですか? ……なれば、極力やわらかな物言いを心がけます」
八葉をはじめ、傅かれる立場にあるだろうに実に砕けた態度であるのは、きっと彼女の生まれと育ちゆえに。その違和をもはや微塵も感じない自分は、ずいぶんとこの世界に染まったのか、“彼”に染められたのか。馳せかけた思いは胸に沈め、曖昧に微笑むことで要求への承諾を返す。
そのまま覚束ない手つきの望美を手伝って着替えが済んだ頃、隣の部屋から「終わったか?」という明るい声がかけられた。
「将臣くん! うん、終わったよ」
「どうぞ、お入りになってください」
望美の元気な返答に重ねてもまた招き入れる言葉を送れば、几帳の向こうからこちらもまた新しい衣に着替えた将臣が、知盛と連れ立って姿を現す。
それぞれが適当に腰を下ろすのを横目に、余分に積んであった椀に清水を汲み、そっと配っていく。それに気づいた将臣と望美がそれぞれ礼の言葉と会釈を送り、そこでようやく一同は互いの存在をはきと認識する機を得た。
「胡蝶さん、ありがとうな。こいつがこないだ言ってた”白龍の神子”で、俺の幼馴染の望美」
「先ほど、じきじきにご挨拶をいただきました。こうして巡り会えましたのも、熊野権現のご利益にございましょう」
幸先のよいことです、と。当たり障りなくにこりと笑ってやれば、篭められた皮肉を読み取ったらしい知盛が喉の奥でくつくつと笑っている。
「で、こっちが俺の世話になってる家の姫さんと、その護衛な。胡蝶さんと、知盛」
「よしなに……“神子殿”」
そのまま設定に忠実な紹介をしてくれた将臣に応え、は小さく会釈を、知盛はゆるりと口の端を吊り上げての目礼を送る。
「えっと、胡蝶さんには改めまして。春日望美です」
ぺこんと頭を下げて簡単に名乗りを返し、望美はふと表情を改めた。
「将臣くんと一緒に熊野川の怪異について調べていたんだけど、途中で雨に降られちゃって。助かりました」
「原因の目星はついたんだけどな。どうにも面倒なことになっててさ」
説明の合間にちらと視線が衣桁にかけられている衣装に向けられ、改めての礼がに向けられる。そして、事情説明を引き取るようにして将臣が言葉を継ぐ。
いわく、氾濫の原因となっている怨霊が、よりにもよって熊野御幸に訪れている後白河院の傍近くに入り込んでいるのだという。女房の姿となって取り入っており、しかも院が気に入っているというから性質が悪い。なんとか引き剥がして封じたいのだが、そもそも当の院が神出鬼没なため、捉まえることが適わないのだそうだ。
「それはそれは、ご苦労なことだな」
「ご苦労って、お前。まるっきり他人事だな」
「どうせ、闇雲に探し回っているだけなのだろう……? なれば、児戯に興じているのと、変わらんではないか」
「……じゃあ、お前にはわかるのかよ」
「わかりはしないが、な」
くくっと口元を押さえて笑声を殺し、知盛は気だるさの向こうに鋭さを隠した視線をゆるりと将臣に据える。
「御幸に参られているというに、本宮に辿りつけず暇を持て余している……と、なれば。あの院のことだ。おとなしく写経なり潔斎なりをしているとでも?」
「まったく思わねぇ」
「では、何をなさっておいでだ」
「遊んでるに決まってる」
言葉遊びのように、幼子を導くように。仮にもこの国において人位臣の至高に座す方を話題の中心に据えながらいかにも不敬極まりない遣り取りだったが、この場において、それを咎め立てるような人物は存在しない。
Fin.
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