朔夜のうさぎは夢を見る

切ない優しさ

 無意識であれなんであれ、源氏の神子たる彼女を自分達に引き合わせないでおこうと判断した将臣の直観はどこまでも正しい。はともかく、知盛はあまりにも有名な平家の軍神。知るそれと同じであるのなら、神子の一行には九郎義経に梶原景時、武蔵坊弁慶が同道しているはずだ。その彼らが、還内府の素顔を見知らぬのはともかく、知盛を見知らぬとは思えない。ならば、彼に束の間の夢を見せておく間だけでも、彼の所属を確信させるような事態は避けるべきであろう。
 せっかく会えたのだから、怪異が納まるまでは好きに逢瀬を重ねてこいと言った知盛に素直に従ったのか、将臣はそれまで以上に外に出かける頻度が高くなった。そしてその邂逅からさほども経たぬある日、あろうことか彼は“白龍の神子”を伴って宿へと帰ってきたのだ。


 激しい夕立に降り込められ、午後の暑さが一気に拭い去られた夕刻のこと。涼しい風が吹く庭に虫と鳥の声が戻ってきた頃になってのっそり起き出してきた知盛に清水と軽く摘まむものを用立てていたは、ふと巡らされた不機嫌そうな視線に目をしばたかせる。
「しんちゅう――」
「呼ぶな」
 思わず彼の役職で呼びかけようとした唇は、常からは考えにくい素早い動きで押し当てられた人差し指に阻まれる。視線は部屋の入り口に向けたまま、ついで落とされるのは「名を」という呟き。その段になってようやく、は徐々に近づいてくる強大な陽の気の塊に気づき、目を見開く。
「ただいま。胡蝶さん、悪ぃんだけど、着替えを貸してくんね?」
 ばたばたとにぎやかな足音と共に顔をみせた馴染みの紺碧の視線は、その背中に見覚えのある、けれどいまだ見知らぬ少女を連れている。
「っと、珍しいな。知盛も起きてたのか」
「……お前も、衣を変えろ」
 きょとんと目を円くした将臣にはいっさい構う様子を見せず、知盛は客人もろともちらと視線を投げただけでつまらなそうに呟き、腰を上げる。
「あ? なんだ、お前のやつ貸してくれんのか?」
「………お前は、そのお嬢さんが着替えられる間、俺がここにいても良いと?」
「良くない」
 心底呆れ切った問いかけには真顔で即答し、将臣は「そういうことだから、頼むな」と言い置いて元より二人が使っている奥の部屋へと移動していく。それを思わず見送ってしまってから、はようやく視線をいまだ部屋の入り口に立ち尽くしたままだった少女に戻す。


 どうやら先ほどの夕立で意に染まぬ水浴びをすることになったらしい。大雑把に拭き取られてはいるが、髪はしっとり濡れたままだし、衣がべったりと肌に纏わりついているのは明白。確かに、いくら暑い盛りとはいえ、このままでは風邪を引いてしまうだろう。
「どうぞ、こちらに」
 裾を捌いて腰を上げ、は部屋の隅に纏めてある己の荷物から単衣と袿を一枚ずつ引っ張り出した。なるべく軽装になるよう心がけていたため替えの衣は多くもないが、一時貸し出す分には問題もない。そう思って衣を手に振り返れば、先ほどから一歩も動かないまま、複雑な感情に塗り篭められた視線がひたとに据えられている。
「やっと、見つけた」
「え?」
 ぽつりと落とされた言葉が深い感慨に濡れていることは読み取れたが、そこまでの思いを向けられる要因がには思いつかない。彼女とは、初対面であるというのに。


 瞳に浮かんでいる光から見て取れたのは、彼女が何かを悔いているということ。焦がれ、求め、疲れ果てたその先で、こうしてに『邂逅した』らしいということ。あまりにも不可思議な反応に思わず眉根を寄せてしまったのを認めたのだろう。ひとつ頭を振ることですべての情動を明るい笑顔で覆い隠し、少女はに歩み寄って膝をつく。
「これ、借りてもいいんですか?」
「……ええ、どうぞ」
 笑顔そのものとも称せるだろう明るい声での問いかけは、唐突な印象でありながらそれまでの話の流れに実に綺麗に即したものだった。どうやら先ほどの複雑な反応は、なかったことにしたいらしい。いささか強引な感が拭えなかったが、あえて指摘して墓穴を掘るよりはよほどましだろう。はたりと瞬きひとつでその訴えを胸に収められるほどには、時間を重ねてきているという自負がある。
「お手伝いいたしましょうか?」
「えっと、お願いします」
 濡れた衣を肌から剥がしながら着替えるのでは、いかにも手間がかかろう。手拭いになりそうな布を探り出してそう申し出れば、困ったようなはにかみ顔が返される。それをぼんやりと受け取りながら、今さらながら名前さえ告げていなかったことを思い出す。
「申し遅れました。わたしは、胡蝶と申します」
「胡蝶、さん?」
 名を疑問符で問い返されるということは、彼女は自分の纏う別の名を知っているということ。やはり彼女と自分のこの『邂逅』は、互いにとって正しい認識なのだろう。自分がなぜ彼女に再びこうして出会うことになったのかの原因がわからなければこそ、あえて明かすことも問うこともないかと思うが、下手にぼろを出すような真似だけはするまいと心に堅く誓う。
 一端が知れれば、きっとすべてが明らかになる。それだけはだって、どうしても困るのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。