朔夜のうさぎは夢を見る

切ない優しさ

 朝は日が昇る前から夜は日が落ち、視界が悪くなるぎりぎりまで。強行軍を続けて熊野路を急いだというのに、いざ本宮を目の前にして、一行に突きつけられたのは、ありうべからざる川の氾濫による足止めというとんでもない現実だった。もう幾日も納まっていないらしく、参詣客は勝浦を経由するよう方向を転換しているとのこと。確かに、回り込んでみれば少しは違うかもしれないし、その頃には氾濫が納まっているかもしれないとの希望を抱いて勝浦まで足を伸ばしたというのに、結局状況は変わらず、一行は宿にて思いがけないのんびりとした時間を過ごしている。
 じっとしているのが苦手なのか、将臣はちょくちょく出歩いては川の状況やらその他の情報収集やらに勤しんでいるようだったが、設定が設定であるためは下手に動けず、貴族の姫が一人で宿にいるのは不自然だからと、知盛もまた宿にてのんびり惰眠を貪る日々を重ねていた。
 氾濫は一向に納まる気配がないが、それも無理からぬことだろうというのは誰にも言わないの感想である。天候に異常はなく、青天の霹靂ともいうべき事態なのだといわれてしまえば、原因は人外の力にほかなるまい。ならば、人の身ではどうしようもない。天意だか怪異だかは知らないが、納まるのを待つしか方策はないのだ。


 そういえば、と。暇にあかせて思い立っては魂の奥底に眠っているはずの蒼焔を探してみるのだが、どうにもうまく存在が掴めない。意識を凝らすことでヒトならぬ気配を探ることはできるが、己が身に宿っているはずの人外の力の行使がまるでできないのだ。
 死の淵を越えることで、もしや己は己を愛し子と呼んだあの神からも見限られたのだろうか。別段その加護に頼り切っていたというわけではないが、見限られたというのならそれはそれで、悔しくもあり切なくもあり、なんとも複雑な心境である。
「ただいまー」
 日陰になるぎりぎりの位置まで簀子縁に出て庭を眺めていたは、にぎやかな足音と共に部屋の入り口にやってきた帰還の挨拶に、くるりと首を巡らせる。
「お戻りなさいませ」
「おう、ただいま。知盛は?」
「奥にてお休みになられておいでです」
「……よく寝るよなぁ」
 こんだけ暑ぃのに、寝苦しくねぇのか? と。心底呆れた様子で呟きながら、将臣は躊躇いなくが視線で示した几帳を回り込んでいく。その背を見送りながら、は自分用にと脇に置いておいた提子から新しい椀に清水を注いでおいてやる。


 しばらくがたがたと押し問答を繰り返したようだったが、寝ぼけ眼を引きずった知盛が強制的に叩き起こされることで決着はついたらしい。とろりと今にも溶けそうな目元を無造作にこすり、あくびを繰り返す姿は戦場での姿との落差が激しく、どちらが彼の真実なのかを霞ませる。
「なんつーか、地味にビッグニュースだ」
「……備具」
「あー、でかい知らせってことだ」
 熊野に入って間もない頃に与えられた忠告が功を奏しているのか、将臣は普段に比べればだいぶカタカナの使用頻度を抑えている。それでも、こうして興奮すればつい地が出てしまうのだろう。掠れた声の知盛に微妙にイントネーションの違う単語を繰り返され、しまったという表情をしながら話を先へと持っていく。
「熊野川の氾濫だけどさ、あれ、怨霊の仕業らしい」
「………かような話、聞いておらんぞ」
「誰の仕業ってわけでもねぇんだろ。自然発生する怨霊も珍しくないって言うし、その一種じゃねぇの?」
「自然発生、ね」
 どこでそのような話を聞きつけてきたのか、将臣の言葉は確信に裏打たれて力強い。不審そうに眉根を寄せた知盛をさらりと一蹴するが、納得したのかしていないのか、薄く嘲りの笑みを刷いただけで口を噤み、先を促すように視線を持ち上げる。


 将臣が語るに、情報源は“白龍の神子”である幼馴染であり、彼らが怪異を怨霊によるものであると看破したらしい。ついでに彼らの領分だからと、掃討は任せて引き上げてきたのだそうだ。
「ま、しばらく待ってりゃ何とかしてくれっだろ」
「いいのか? かほどに探していた相手……ここで別れれば、次の機会はないやも知れんぞ?」
「だからといって、俺があいつについて行くわけにもいかねぇだろ」
 今の自分は素知らぬふりをするべきであろうと口を噤んでいるだったが、将臣が幼馴染と弟をずっと探していたことは『聞き知って』いる。まさかそれが“源氏の神子”であり、弟もその一行に紛れているとは知らなかったが、なんとも皮肉な現実である。
 かたや平家の御旗印にして象徴でもある総大将。かたや源氏の御旗印にして神意の具現でもある戦乙女。これが舞台の脚本ならば秀逸な設定に浸って楽しむところだが、現実である以上、そこには痛みしか存在しない。
「それもまた一興と、申し上げたつもりだったんだがな」
 ぽつりと落とされた独り言は、幸いにしてか不幸にしてか、当の将臣には届いていないようだった。自嘲と憐憫に揺らぐ儚い視線が床に落とされている横顔を視界の隅に認め、は確信する。知盛もきっと、将臣が無意識のうちに目を瞑ったのだろう白龍の神子と源氏の神子の共通項に気づいたのだろうと。

Fin.

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